三上喜勝(1959年高卒)
成蹊学園サッカー部100周年に寄せて(1950年代後半頃)
1950年代後半の頃の成蹊高校サッカー部の活動
三上 喜勝(1959年成蹊高卒)
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(学生当時の写真)
三上喜勝(高校10回卒)です。1954年に、中学二年でサッカー部に入りました。今から64年前の事です。
当時の日本は、敗戦の混乱から、朝鮮戦争特需のお陰で、やっと抜け出せて、落ち着きを、取り戻し始めた頃でした。構内には、第二次大戦の名残りが見受けられました。とくに、中島飛行機武蔵野製作所防衛のため、今の“けやきグランド・サッカーグランド・野球場”の辺りに「 高射砲 」、西部室棟辺りに「兵舎」、大学8号館辺りに鉄筋コンクリートで出来た「砲弾庫」などが造られたそうです。この兵舎と砲弾庫をサッカー部を含め運動部の“ 部室 ” として使っていました。ちなみに、中島飛行機武蔵野製作所跡地は、現在の、武蔵野市役所、野球場、NTT武蔵野研究所と成ってます。
また、成蹊校歌は、一番と三番を歌い、二番を省くことがありますが、戦後、GHQ通達での、使用禁止言語の一つとして、「 八紘(ハッコウ)」と言う言葉が有りました。校歌の二番の歌詞に、「・・・・・白光(ハッコウ)の空、高くそそる筑波と・・・・」と、“白光” と言う文言が有りますが、白光(ハッコウ)→八紘 とが、音が同じなので、校歌で使用禁止言語を歌っていると、GHQにいらぬ疑いをかけられぬ様に、二番を省く事にしたそうです。この事は、音楽の和田真理子先生に、教えて頂きました。
当時は、まだまだ、サッカーはマイナースポーツで、スパイクは中央線沿線の運動具屋さんでは、売ってませんでした。都内に何軒か専門店が有り、六年先輩の預良文さんに紹介して頂き、茗荷谷の「安田靴店(後の“ヤスダ”ブランドのサッカーシューズメーカー)」に行き、足型を取って、牛革製のスパイクを作ってもらいました。感激したのを今でも覚えております。円筒形のポイントも革製で、2~3ヶ月で消耗しますので、修理しなければなりませんでした。スパイクの修理は、もっぱら東門の内側に有った小さな靴屋さんでやってもらいました。
今回は、春合宿の写真三葉と試合後の写真一葉を用意させていただきましたが、メンバーのお名前を、思い出せない方がおり、申し訳けなく思っております。この頃の合宿は、今は使われていない北門の東側の、昔のアトリエに古畳を敷いた所で、行われました。合宿中は、先輩方がいろいろと差し入れをして下さいました。
グランドは、今のサッカーグランドの同じ場所ですが、当時は、高射砲の周りに用いられた石灰で表面がおおわれて、凸凹で、良いグランドとは言えませんでした。そこで、1962年の春合宿は、武蔵野サッカーグランド( 現在の武蔵野市役所の場所 )で、行ないました。
1. 1958年春合宿 ( 中高の合同 )
旧高24回卒の金井弘夫氏(東大理学部大学院)と高7回卒の笠原明道氏(慶大工電気科)コーチとして、参加して下さいました。この写真には、三組の兄弟がいます。
(笠原 明道・泰道)、(岩田 瑛士・矢弓)、(三上 喜勝・正利)
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2. 1958年5月 対桐朋高校戦後
高11回卒の中村八郎氏が、セントポール高校へ留学が決まり、その歓送試合です。
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3. 1962年 春合宿
三上がコーチとして、参加した時です。なお、この時代の顧問の先生は、中学 稲垣友美先生 高校 平田博則先生でした。
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