七戸一生氏
追悼 七戸一生氏(1973年文学部卒・故人)
(成蹊学園サッカー部OB会 運営委員長)
平成25年5月、成蹊学園サッカー部の発展に情熱を持って生涯尽力され、OBからも現役からも愛され慕われた七戸さんが、急逝されました。成蹊学園サッカー部関係者一同、生前の活動に感謝し、哀悼の意を表したいと存じます。
ついては100周年記念誌の紙面を借り、生前同氏が現役諸君に思いを込めて著された一文を掲載いたします。
こころより冥福をお祈り申し上げます。
愛すべき諸君へ
成蹊大学体育会蹴球部 七戸一生氏
(1973年文学部卒・故人)
https://gyazo.com/79571f4b137a8a0caed56d2475f82e20
愛すべきわが後輩諸君は、毎日毎日、グラウンドの砂を噛むような、激しい練習を積み重ねている事と思います。
小生は、卒業後十年余、後輩諸君の栄光多からん事を祈り、また、ただただ過ぎ去りし蹴球部時代の充足感というか、満足感というか、とにかく楽しかった事を思い出す毎日です。
考えてみれば、小生の現役時代も人並に色々の事があったはずです。焼けつく様な炎天下の練習に恐怖感を感じた事もあっただろうし、(実際”殺し”と称する野蛮な練習があった)いてつくグランドから部室に足をひきずりながら引きあげてくる時、どこかに失望感があっただろうし(シャワーは水ばかりの時があった)合宿は長かったし、ケガをした時はやめたくなったし、日々の単調な練習に厭気がさして、俺はこんなに毎日毎日サッカーばかりやっている青春でいいのだろうか、サッカー以外にやらなくてはならない事があるのではないだろうか、と悩んだり(実際サッカー以外に勉強や友達付き合い、旅行やその他自分では色々やっているのにも関らず)自分の技術には天狗になって(それはとてもマイナーな天狗なのだけれど)練習の手を抜く時があったりしていたに違いない。生意気な後輩も厭な先輩も口煩いOBも居たに違いない。
にも関らず今は、蹴球部の看板をしょって学内で如何に活躍していたか、そして吉祥寺の街を(未だ薄汚い街ではあったが)胸を張って彷徨する正に疾風怒濤の時代であり、同期とは切磋琢磨し、後輩からは慕われ、先輩OBからは如何に愛され心からサポートされていたか(思えば先輩OBからサポートされる現役時代は、余りに短かく、卒業してから死ぬまでのサポーター人生は余りにも長いネ)、(リーグ戦の時見に来て頂いた伊藤先輩に『七戸!最近頑張っているそうじゃないか』と云われただけで感激した覚えがある)(岩田先輩が現役の勝利を見て、雨の中落涙しているのを見た事がある)練習は率先してやり、グランドの砂を噛むような、今でも本当にグランドの砂が口の中でジャリジャリいうような練習をやり、何とか今より少しでもうまくなろうとし、試合で勝った時のあのチーム全員で味わった喜びと感動と満足感を思い出すだけです。
小生は今年の正月、寒い千歳空港の待合室で、早稲田ラグビーをテレビで見ていました。劣勢を予想される早稲田ラグビー部はそれでも果敢にタックル、スクラムを戦っていた。テレビの回りは、黒山の人だかりで、戦いが終り早稲田が勝利すると、山男姿の若者が四、五人肩を組んで母校の校歌を歌い出しました。それは滑稽な事かも知れない。でもとても清々しい光景でした。小生はわが母校成蹊の蹴球部を想いました。願わくは、わが蹴球部がもっともっとメジャーなものになってほしい。そして成蹊の試合がより多くの人を感動させ、応援歌が湧き上り、校歌を高らかに歌う日がいつか来てほしい。その為には、今現役の諸君が一日一日を大切にし、一つ一つメジャーなもの、強いものになってほしい。現役の諸君が青春のプロに徹し、全てを燃焼し新たなる伝統を築く礎となってほしいと心から思う次第です。
勿論われらOBにとって成蹊大学蹴球部が須らくメジャーなものです。心から応援歌を歌い続け、校歌を歌い続け、死ぬまでサポートし続ける・・・・・・・・・。(1982年度 桃蹴より)
(写真は、「成蹊大学体育会蹴球部マネージャーBLOG」July 2011より)