疎結合思考
思考を疎結合にする
書いて考えるとき、それぞれの文の独立性を高く書く。
一つの文に一つの内容だけ書くということ。外形的には短い文の連なりになることがおおい。
そのものズバリを言うのは難しい。だが、これらを避ける、という言い方では言える。
重文・複文を避ける。長い修飾を避ける。これらは、文を分ける。一文ではなく、二文以上にする。
フィラーを避ける。書かない。
修飾が長い場合は、先述したように二文以上に分ける。
主張に自信がないときも、変にまどろっこしい表現をしない。自信の度合いに応じた修飾をする。
完全に上記のものを排除せよというわけではない。入っていても良い。大事な基準は、自分が読んですぐに理解できる文の長さか、であると思う。
なぜ?
包括的理解は部分的理解の集合を真とする。
これを実現するための方法を考える。
ある一つの内容ごとにページを分け、それをリンクでつなげることで、分けることができる。
しかし、内容一つごとにページを別で作るのは面倒。もっとコストを下げたいという思いが生じた
ページ内でも分かれていた方が良いのではないか? という発想がそこから生じる
これは一つの文章の中でも、それぞれの文を疎に書くということ
副次的効果
どのページに書くかを事前に悩まないで済む
各文が疎だから、分けたいときも分けやすい。
分けやすいから、別のページに切り出すのが楽。分けたいと思ったときに分ければ良い。
そうすると、どのページに書くべきか、という問題が小さなものになる
内容を移動するコストが小さいから。
問題は消えはしない
消えなくて良い。情報の最適な位置は状況に応じて動的に変化する。
アウトライン編集が楽
これも各文が疎結合なことに依る
頭にスッと入ってくる箇条書きの構成方法を行いやすくなる
人に見せる文を書くときは必ずしもそうでなくてよい
この書き方で書いた言葉は、リズムが独特になる。
文の区切りが増える。句点が多い。刻む感じ。朗読ではない。社説みたいになる
数学のような感じである。
文学ではそれをする必要はなさそう。
もちろん駆使しても良い
一方、実用文ではこのリズムの方が良いだろう。
なぜ? 分かれているから。分かれていると、理解しやすいから。
本当か?
そのように思う。以下が連想される
頭にスッと入ってくる箇条書きの構成方法
包括的理解は部分的理解の集合いや、これは仮説なのだった
反対意見
「分けたもの」と「分かれていないもの」は別情報
「分かれていないもの」でしか表現できない情報があるのではないか?
例:詩。歌詞。一文が非常に長いドイツ哲学(偏見)。構成をあえて不明瞭にしているフランス現代思想(偏見)。
あり得る。不明。現時点で考察は進んでいない。
あまりにもぶつ切りすぎるので読みにくい。
これは同意できる。一般的な文章はここまでぶつ切りではない。TPOに応じて適度に一文を長くするのが良いだろう。しかし文の要素は互いに疎な一文をつなげたものにする。そうすることによって、リズムがおおらかになる。おおらかでありながら、部分に着目しても、それぞれの部分が理解できるような文章になるだろう。
区切り文字は何を使うか。
句点(。)、読点(、)、中黒(・)、改行、箇条書きがある。
適宜使い分ければよいのでは
プレインテキストなど、インデント付きの箇条書きを容易に作れないような環境の場合について。この場合は、句点・読点・中黒・改行を適宜使い分ければ良い。
思えばマインドマップも一つ一つの要素を独立にさせるものだった。
マインドマップが分かりやすいと感じる理由の一つはこれだったのかもしれない。
書いていく場所は、ワンマイル筆記具も大いにあり。
散文で書くのが良い。散文の情報表示量は多いため。
書いたあと、形式を変換する。Cosenseなら、箇条書きにする。すでに文の単位で分かれているので、箇条書き上での再配置もしやすい。
ただ、散文で貼り付けたままの場合も多い。
書かないで考えるときも、それぞれの想起する要素を独立させるよう努める。
分かれていないものを分けるにはどうしたら良い?
2024-11-12時点での感想
最初にこの手法をまとめてから、1ヶ月弱経った。
書きたいことが多くてどうまとめようかというとき。書けることがなさすぎて何かをひねり出さなければならないとき。どちらも、役立っている。
なぜか。
前者は、編集しやすいからである。ルールとして、一つ一つ分けることだけを課せば、いくらでも書いてよいのである。だから、まず一通り書き出せる。そしてそれらは編集しやすい形で記録された。だから、書きやすいのだろう。
後者は、ひねり出しやすいからである。小さなことでも、一つ書ける。そうすると、その連想からなんとかもう一つ出てくる。それを繰り返す。そうすると、なんとか形になる。
そういうことで、両者良いのだろう。
また、思わぬ副次的効果もあった。
それは一文を長くしても通りの良い文章が書けること。読みやすい文章が書ける。まああくまで自己評価だが。なぜか。一文が長くても、句が整理されているから。一文を長くしても、頭の中では短文を連ねた形で"書いて"いる。例えば先程の文だと「一文を長くする。けれども、頭の中では短文を連ねている。そういう形で"書いて"いる」となる。このようにしながら書くと、句の構造に自覚的になる。それで、通りの良い文章が書けるのだと思う。
参考
『アトミック・シンキング』
#手法