(ポップスみおつくし)AI歌手の是非をめぐって 大阪市立大学教授・増田聡:朝日新聞デジタル
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■しぐさや技まで保存する「缶詰」
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「マーチ王」として知られるアメリカの作曲家、ジョン・フィリップ・スーザは、1906年に「機械音楽の脅威」というエッセーを発表する。スーザは、当時普及しつつあった蓄音機による音楽再生を「それは本物の音楽ではなく、偽物の缶詰音楽だ」と激しく非難した。彼にとって音楽とは、生身の人間の知性や魂によって表現されるべきものであり、機械的技術による「演奏」は音楽への冒涜(ぼうとく)に他ならなかったのである。
音楽メディア史を研究する秋吉康晴は、論文「録音された声の身体」で、このスーザの非難を当時のアメリカの労働環境の変化の中に位置付ける。工業化が進む当時の北米社会で、労働者は個別性を奪われ、流れ作業に従事する交換可能な労働力として抽象化されつつあった。こうした労働疎外への恐怖や反感が、機械音楽への反発の背景にあったことを秋吉は指摘する。
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昨年末の紅白歌合戦に出演したAI美空ひばりは賛否両論の反響を呼び、一部では「死者への冒涜」という強い感情的反応もあった。私が想起するのはこのスーザの「缶詰音楽」への反感との同型性である。AIが人間の能力を超えるとされるシンギュラリティーの到来が騒がれ、多くの仕事を奪うと噂(うわさ)される2010年代の社会環境は、奇(く)しくもフォードシステム前夜のスーザの時代と類似する。 スーザが用いた「缶詰音楽」という比喩は別の点からも興味深い。ジョナサン・スターンの指摘(『聞こえくる過去』インスクリプト)によれば、19世紀後半のアメリカでは物体の化学的保存の技術が進展し、人々は缶詰のような保存食品に慣れ親しむようになっていった。「保存できなかったはずのものが保存できること」が人々の経験の中に浮上し、希求されたことで、1877年に発明された蓄音機もまた「死者の声」を永遠に保存できるものとして宣伝された。「フォノグラフ葬儀」と呼ばれた、生前の説教や演説を蓄音機で聴かせる葬式もしばしば行われたという。録音技術は、その初期から死者の形象の保存という欲望に駆動され発展してきた、とスターンはいう。
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そのように考えるとAI美空ひばりも、その技術的達成の質については議論があっても、本質的には「死者の声を保存する」技術の最新型に過ぎないのかもしれない。本人が歌ったことのない歌を歌わせることができる点で録音技術とは異質だ、という意見もあるが、録音技術が歌や声を保存する技術であるとすれば、AI歌手は本人のしぐさや声質、歌い回しの技を保存する技術ということになるだろう。AI研究者の松原仁が指摘するように(朝日新聞16日付文化文芸面「AIひばり 歌声が問うもの」)、新しい技術への拒否反応は「慣れ」の問題でもある。死者の声質や歌い回しを再生産できる技術にわれわれが慣れたとき、こんにちCDでジョン・レノンの声を聞くのと同様に、AIひばりを特段の意識なく聞くようになるのかもしれない。 考えてみれば「AI美空ひばり」とは、AI技術を用いて高度に声質や歌い回しを再現した「出力結果」でしかない。紅白歌合戦に「出演」したといっても、本質的には過去の映像の上映と大差ない。目に映るAIひばりの姿はAIそのもの、「自律的に考え行為する機械」そのものではないのだ。だがAI技術による新たな労働疎外への予感は、AIそのものではない「AI美空ひばり」があたかも「人造人間」であるかのようにわれわれに誤認させ、賛否諸々(もろもろ)の感情的反応へと誘(いざな)っている。