写真集を机の上に
私の机の上には、デスクトップのiMacがデンと上がっていて、それから今読んでいる本が置かれている。それからもうひとつ、女優の写真集が置かれている。ブックスタンドに、閉じられていたり開かれていたりしながら、その女優の姿が見えるようになっている。ときどき開いて、置き直す。ときどきそれの方を見る。
写真集には文字がなく、代わりにあるのは顔、顔、姿、表情、姿勢、風景、闇と光と、そういったものたちだ。それを見ることに何も意味がない、そこから何かを読み取れることはない。もちろん、彼女の表情からは感情が感じられ、シチュエーションが想像できる写真もある。しかし、私はなにか物語を想像することはない。ただその姿、顔、服、姿勢、肌、髪、口、鼻、そういったものをただ見るのみにおもわれる。全体が一枚の写真になっているページもある。じっと見ていると、写真一枚であることこそが正しいページのあり方であって、文字やレイアウトはノイズであるように思えてくる。写真集は静かな本だ。
では、画集はどうだろうか。画集を開くと、文字が沢山書かれている。おびただしい数の文字だ。画集は、うるさい。では、美術館に行けばどうかというと、そこはもっともっとうるさい。絵画の横に解説が、来歴が、西暦が、作者名が、白い板のようなものに黒く細い字で書かれている。人が沢山いて、彼らの全員が、社会的緊張に包まれている。まあ、社会人として、美術館に来ている人として振る舞っている。このことが耐え難いほどに、私にとってはノイズだ。
もっとも、私はふだんは更に酷い、苛立ちと怒り、内線と外線、パソコンのキーを叩く音、今日のタスクと、サボっているときにすることのタスクと、様々なものに絶えず突っつかれている。仕事が終わり、帰るために車に乗り込むと、人が変わったように気分が変わる。しかし、エンジンを入れた瞬間から、またラジオだ、音楽だ、あるいは何か昨日でも今日でも調べたことについてひとりラバーダック・デバックのようなことをしはじめる。けっして劣悪な環境に置かれているとはおもわないが、美術館がノイズまみれであるように、職場もノイズまみれである。
ある種の写真集にも際立ったノイズがあるだろう。煽情的な写真集といったものがあるかもしれない。そういった図画を見ないかといったら、毎日のようにネットで見る。しかし、それは毎日職場に行くのと同じようなことであって、ノイズに当てられることに変わりはない。毎日それを見にゆくからといって、それを毎日机のうえに置いておこうとはおもわない。その女優の写真集は、そういった性質もあまりなく、例えば、裸のような格好はひとつも見られない。せいぜい、寝間着姿ぐらいだ。そこに性を想像する余地は十分にあるが、そういったことはこの写真集の価値にとってみて、あまり重要でない。
この写真集のような文章といったものが、存在するだろうか?