元の気付きが我が子に殺される
卓抜とした発見により、多様な事態が整理された後、その事態の整理のひとつがあまりに有用であったがために、世間に広まり、言葉として固定されて、しまいには当初の卓抜たる発見をそのまま言語化したような哲学を否定することとなると、こういったことが起こりはしないか。ことを悟り、それまで互いに繋がりを見いだされていなかったものたちのあいだに繋がりを見出し、その繋がりを語り、その言葉を聞いたものはその新奇な言葉を自らも日々使うようになるのであるが、話を聞いただけの者は、なにゆえそれらが繋がるかどうかまで知っているかどうかは不明であり、ただ面白い話をする賢者の話を聞き、その新奇な言葉遣いに惚れ惚れとし、その部分だけを自己の言語習慣に取り入れただけかもしれない。すなわち、賢者はことを悟り、ついで物事に繋がりを見出したわけであるが、賢者の話を聞いただけのものは、当初悟られたことを知らぬままに、ただ聞き知らされた繋がりにのみ心を惹かれたということがあるのではないか。このとき、繋がりの根拠としての経験は、無いものとされている。賢者が経験したのは、それまでの概念関係が絶対的なものではなく、それまで自らが固定的だと思っていた概念の布置が変動しうるものであるということでもあろう。すなわち、認識の相対性、価値の相対性を経験した。そして、そのような概念全体の流動性の経験を経て、まったく新しい概念間の繋がりを見出し、それを語った。それを聞いたものは、その繋がりの話は聞くが、もちろんその者は、自らの固定的な概念系において話を処理しよう。すなわち、話を聞くだけの者は、概念全体の変動というイベントまでは経験しない。ただ、その変動の結果としての新しい固定化だけを聞き知る。仮にその新しい固定化された概念関係に感銘を受け、これを絶対視したとしたならば、概念全体が変動しうるという当初の根源経験は否定される可能性がある。すなわち、「賢者の発見した知識は絶対的なのだが、世には正しいとされる知識も変動しうるとのたまう奴がいる。そのようなことがあったならば、賢者の知識が正しいにもかかわらず、それが正しくないことになる時がいずれ来るということになってしまう!」とでも言うだろう。こうなると、賢者が当初見出したものが、その子により否定されることになる。賢者の話を当時聞いた者が死に絶えた後になっては、なおさら賢者の経験は忘却されるだろう。そして、私達は現在、莫大な数の、忘れ去られた賢者の智慧の残骸を概念体系として持っている。私たちの知識の成分の大半は、元初経験の忘却であるだろう。