香月泰男の《水鏡》について
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1942《水鏡》
同年の第5回文部省美術展覧会に出品
所蔵:東京国立近代美術館
https://www.momat.go.jp/collection/o01054
香月泰男はシベリア抑留体験を主題にしたシベリア・シリーズで知られる画家だが、戦前から戦後のシベリア・シリーズ以前の作品にも魅力的なものがあり、その時期の作品に見られる少年像には、後ろを向いていたり顔の前に物を置いたりして顔が描かれないという特徴がある。この作品も、《水鏡》というタイトルでありながら、水面には覗き込む少年の鏡像がない。
水面に鏡像がないとはどういうことだろうか。気になって、この作品に関する言説を少しだけ集めてみた。
①小泉淳一「ナルシスの昇天」
『没後30年 香月泰男展図録』(2004)に収録された論考。
小泉はユング派の心理学者エーリッヒ・ノイマンの、ナルシスの神話の解釈を持ち出す。ノイマンによればナルシスの神話は少年期の意識の発達の一段階とされる。グレートマザーの誘惑に反抗し、認識された自分自身を愛するという行為は、自己意識が越えねばならない段階である。香月の描く少年たちに顔がないのは、香月が子供時代に実の父母との関わりが薄かったために、自分自身を見つけられずにいる、というのである。
戦後の香月の作品に登場する人物像は体格が少年から青年に移り変わり、習作ではついに顔が描かれるようになる。小泉は、その顔が香月の自画像ではないかと述べる。のちのシベリア・シリーズでもパターン化して描かれるその顔は、戦争と抑留を経験して、ついに香月が自己像を確かなものにしたのだと見立てる。
《水鏡》の少年が自己の鏡像を持たないことを、主体性がない状態なのだと解釈することは、ユングを持ち出さずとも導き出せるものだと思うが、香月の出征が現実的なものとして近づいている時期の作品であれば、かなり危うい状態である。《水鏡》は受動的に自らを手放しているさまが描かれているのだろうか。
②沢山遼「限界経験と絵画の拘束ー香月泰男のシベリア」
『絵画の力学』(2020) 書肆侃侃房 に収録された論考。
沢山は小泉の隠喩的な解釈を一蹴するが、小泉が着目した香月の作品に頻出する容器というモチーフをふまえて論を立てる。
《水鏡》に関しては、1948年の《埋葬》との類似性を指摘する。前者で人物は箱型の容器の外、後者では死者として内側におり、いずれも顔は描かれない。
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1948「埋葬」
所蔵:山口県立美術館
https://vam-yamaguchi.com/item1_29/
黒く淀んだ水槽の淵を覗き込む《水鏡》の人物のすがたは、来るべき暗い時代を予告するだろう。それは戦争を挟み《埋葬》において、死そのものへの埋没として変奏されることになる。《水鏡》に描かれた水槽が、いずれ訪れる死の形象、すなわち墓の徴候なのだとすれば、シベリア以前と以後を隔てる二つの作品の差異は、生を疎外する死と、死へと脱落した生のあいだに存在している。
妥当な解釈だと思う。沢山はこのあと、シベリア・シリーズに描かれる顔を、聖骸布との類似を元に考察を進める。
(澁澤龍彦の小説『高丘親王航海記』の一場面を思い出した。高丘親王がとある湖を覗き込むと、自分の顔だけが映っていなかった。聞けばその湖水に顔の映らないものは、一年以内に死ぬという言い伝えがあるという。物語はその通りになる。)
ちなみに沢山は、香月の作品が主題の深刻さにも関わらず、戦後日本で大衆的人気を誇ってきた理由を「それはおそらく、シベリア・シリーズ以外の絵画において顕著に示されているような、日本画的な感性を導入することによる簡略化された表現の審美性と、郷里の自然や私生活へ向けた甘美な抒情性に由来する。」と述べているが、私は違う意見だ。香月が大衆的人気を持つのはまさにシベリア・シリーズにあり、それは戦争の被害者としての絵画だからではないか。個人の意に反する従軍と不合理な抑留という受難を追体験して、それが二度と繰り返されないように平和を願うことは、太平洋戦争の加害者としての責任を差し置いて戦争を考えることができる安全なコンテンツなのであって、人気が出るはずだと思う。
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沢山の論考は絵画組成の分析も含め全体的に説得力のあるもので、付け加えることは無さそうだ。
だが、《水鏡》について、もう少しだけ。はじめに香月の少年像に顔が描かれないと書いたが、少年だけではなく牛や犬などの動物も同じように顔が描かれない。必ずしも自己認識の問題として扱う必要はない。
絵の中の人や物が影や鏡像を持っているのは、絵の中の物理条件や法則に従っていて、絵の世界の一部であるということを示している。《水鏡》の少年に鏡像が無いのは、鑑賞者の我々と同じように彼が絵の世界の外側にいること、鑑賞者の我々と同じ位置にいるということを示す。つまり、無我夢中になって画面を見ている人を見ている、という再帰的な主題の絵画である。絵画から画面の外へ向かう眼差しがあれば、居心地の悪い思いをしながら鑑賞者という立ち位置を自覚することになるが、そうした要素はないため、ひたすらな没入から目覚めることはできない。そのまま墓場に繋がるのも道理なのである。
香月の《水鏡》は、没入という主題を本質的に、また戦前の日本の心理状況を象徴的に表す作品であり、それゆえに日本近代美術の中の静かな名作だと思う。同時代を思い起こせば、靉光や松本竣介などの新人画会の画家たちは、自画像や眼差しのある絵を積極的に描いていたのであり、そうした絵に対する態度と構造の差もまた考察すべき事柄のように思われる。
2024.8
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