鑑賞者の位置
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小林徳三郎は子供をたくさん絵に描いた。 <金魚を見る子供>*は、あたたかな黄金色が画面全体を満たしている、うっとりするような絵だ。一心に金魚を見つめる子供は、見られていることを意識していない、絵画を愛でる自由を鑑賞者に与えるいわゆる没入の主題である。また、金魚鉢という空間は、同じ空間に接していながらも人間が生息できない別の場所であり、その世界内異世界へ注ぐ眼差しは、絵画を見ることの比喩とも考えたくもなる。しかしこの絵の面白さは、描かれているものと、絵画と鑑賞者との関係性とを、都合よく一致させないところにある。金魚は子どもの方へ体を向けており、まるで一匹と一人は、見つめ合っているかのような状態になっている。ところが、この絵画を見ている鑑賞者は絵画に見つめられてはいない。鑑賞者は、彼ら二者間の関係性から、疎外されている状況にある。金魚鉢のすぐ近くに座している位置にありながら、金魚はわたしたちの方を向いてくれないのだ。
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先の絵画の数年後に描かれた、<花と少年>**では、関係性はより複雑になっている。まず、この絵のなかで一番強い視線は、少年が発している。彼の上目遣いの視線に沿って、ピンク色の花に視線を移してみよう。その花々は絵の具がボタボタと塗られているだけで描写されておらず、まったく、花には見えない。少年の見つめている花を、鑑賞者は見ることができず、見るように提供されているのは絵の具だけである。それらは注視に値せず、仕方なしに茎へと、そして花が生けられている壺へと視線を下ろしていくと、今度は壺の膨らみに顔があるのを発見する。壺に描かれた、おそらく西洋人の表象らしき人物が、斜めに見上げる先には少年の顔がある。しかし少年はそれに気がついておらず、少年→花→壺の人物→少年→以下略という視線のトライアングルを、鑑賞者はぐるぐると追いかけて、どこにも視線を定めて注視することができない仕組みになっている。
先に<金魚を見る子ども>では、鑑賞者が二者間の関係から疎外されていると述べたが、この作品では壺の人物を関係性から疎外された第三者のように考えたくなるけれども、そうはいかない。今回、視線の三角関係から疎外されているのは、レモンである。鑑賞者と同じ立場にあるのは、レモンだ。鑑賞者は物と同列に置かれている。この果物が担っているのは、疎外されている者の表象というだけではなく、画面構成上の役割もある。ここで少し脱線するが、大正期の著名なレモンといえば梶井基次郎の小説「檸檬」であるが、梶井の小説の主人公が書店で画集を積み上げた上に檸檬を置いてそのゲリラインスタレーションを完成させた時、檸檬の色彩はその物の堆積をひとつの造形物としてまとめる要であった。小林徳三郎の<花と少年>においても、レモン色は作品を一枚の完成された絵画面たらしめる要の色彩なのだが、その要のレモン色は、レモン表象の色ではなくて、花瓶の口のレモン色なのである。花瓶の口のレモン色は、画家が得意とするグレーがかった落ち着いた色彩の盤石な画面の中で、ひとしずくの混じり気のない明るさを持ち、そのみずみずしさが絵をまとめている。植物の緑と、瓶の首の青とに挟まれて、それは輝いている。花瓶の口のレモン色が、適切に華やぎ、かつ唐突に浮かないようにするためには、やや落ち着いた黄色が画面内にある程度存在する必要がある。レモン表象はだから、引き立て役として絵画に必要不可欠な要素なのだ。鑑賞者というのも、絵に必要な要素ではあるけれども、絵は鑑賞者のために作られてはいない。ということをこの絵は教えてくれているのかもしれない。
*1928 東京国立近代美術館蔵
**1931 ふくやま美術館蔵
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2025.12
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