どのようにして「良い習慣」を身につけるか? 『新インナーゲーム』を読んで
『新インナーゲーム』W.T.ガルウェイ についてのメモです。
2018/08/12 夜
この本には、「セルフ1」「セルフ2」という表現が出てくるので、つい、ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』を思い出します。
『ファスト&スロー』がお好きな方でしたら、この本はとても興味深く読めるのでは、と思います。
テニスの技術を向上させる手法についての本ですが、スポーツに限らず、幅広い分野に応用ができそう。
著者のガルウェイは、自分自身に話しかけ、叱責し、支配している声の主を「セルフ1」、その命令によってボールを打つ存在を「セルフ2」と名付け、その2つの存在の働きについて丁寧に順を追って説明しています。
「観察し、批判し、命令する存在」が「セルフ1」、「セルフ1の批判・命令を受け止める存在」が「セルフ2」、というイメージで読み進めました。
「批判する自己」と「批判される自己」が自分の中にふたつあり、ひどく自分を傷つけ、萎縮させてしまうのも自分……という、逃げ場のない状態になってしまうことが、私もよくあります。
そんな時にはどうしたらよいのか、ということが、とても具体的に書かれているのです。
このあと、少しずつ本から抜き出して、書いてゆこうと思います。
[https://gyazo.com/6493523ce02513c1a651c9ae76ba5da6
2018/08/14 夜
やっと読了しました。
気になったところだけ、ところどころ読む読み方をしていたのですが、一度はきちんと読まなくては、と思い……。
テニスはそのゲームの中で勝ち負けを争うけれど、「人は、なぜ、何のために、テニスをしたいのか」を考察している部分を読んでいて、つい考えこんでしまいました。
「私は、なぜ、何のために本を読むのか」とか、「私は、なぜ、何のために仕事をするのか」とか、そういうふうに自分に向けて問い直すと、自分の望みがよくわかって興味深いな、と思いました。
本を読む時間は限られているけれど、少しでも、より楽しく、より日常の経験を味わうために役に立てることができたら……と思います。
仕事は……仕事については、きゅっと一言にまとめるのがむずかしいですが、誰かの役に立つことで、居場所ができたらいいのかな、と最近は思うことが多くなりました。
うーん。今日のところは、こんな感じです。
2018/08/14 昼
今日は、「セルフ1」と「セルフ2」とはなにか、について記載されている場所を、抜き書きします。
45ページから48ページ
【セルフ1は口やかましい上司に似ている──自分と自身】
「リラックスした状態での集中」という芸術をよりいっそう理解するようになったのは、やはりコーチングの現場体験がきっかけだった。ある日私は、コート上のプレイヤーが、自分の内部でひっきりなしに会話をしていることに気がついた。「おい、 しっかりしろトム、体の前でボールを捉えなきゃだめじゃないか」
プレイヤーの心の中で、いったい何が起きているかを観察し始めると、興味は尽きなかった。いったい誰が、誰に対して話しかけているのだろうか。ほとんどのプレイヤーが、コート上で自分自身に語りかけている。「ボールに立ち向かえ」「ヤツのバックハンド側を狙え」「ボールから目を離すな」「ヒザを曲げるんだ」こうした命令は、際限なく続く。まるで、最後に受けたレッスンのテープを頭の中で繰り返し再生しているようなものだ。そして、ショットの後には次のような言葉が、ストロボのように瞬時に頭の中にあふれ出す。
「この不細工な、牛めが。お前のばあさんだって、もう少しましに打てるだろうさ」。
そうした観察を続けながら、ある日ふと「待てよ、これは誰が誰に語りかけているのだろう」という、単純素朴な疑問に行き当たった。
誰が誰を叱りつけているのか。「そりゃあ、決まってるさ、私が、自身に言い聞かせているのだ」。多くの人が、ためらいなくそのように言う。では、私とは、自身とは、いったい誰と誰なのか。
明らかなことに、人は、私と自分自身を、明確に区別し、2つの存在として認めている。そうでなければ、会話は成立しない。
そして私は、ここで言う私は、常に教える側であり、自分自身は、ものごとを実際に行う側であることに気がついた。自分自身が何かを実行すると、私はそれについて採点もするのである。命令者たる私をセルフ1と名づけ、実況者たる自分自身をセルフ2と名づけることにした。マイセルフ(MYSELF)のセルフだ。
(注=便宜的に、 これを日本語では「自分」と「自身」という捉え方で、SELF1を自分、SELF2を自身と読み替えていただくと、より解りやすいかもしれない)。
これで、インナー・ゲーム最初の基礎が出来たことになる。人の内側に同居するセルフ1とセルフ2の関係こそが、知識としての技術を実際の動作に移す上で、最も重要な要素になる。
【信頼されなければセルフ2は緊張する──セルフ1とセルフ2の関係】
セルフ1と2が同一人物の内部に存在するのではなく、仮に全く別の人格であったと想像しよう。以下のような会話を立ち聞きした後では、この二人の関係をどのように推測するだろうか。
プレーヤーが、テニスのストロークを改善しようと、コートに出てきた。
「ようし、いいか。そのなまくらな手首を、今日こそしっかりと固めておくんだぞ」。セルフ1はセルフ2に命令する。さあ、コーチが打ったボールがいよいよネットを超えてきた。セルフ1は連呼を始める。「手首だ、手首だ、締めろ、締めろ」。専制君主? セルフ1の口調は 、まるでセルフ2が耳が遠いか、あるいは聞いてもすぐに忘れる性格だと決めつけているのか、あるいは馬鹿だとでも思っているようだ。
セルフ2すなわち「自身」には、 精神の無意識部分や、神経システムが 含まれている。当たり前の話だが、聴くことも、記憶することもできる。むろん馬鹿ではない。一度ボールをしっかりと打つ体験を得たら、セルフ2はどの筋肉をどう動かせば同じ結果をえられるのか、永遠に記憶することができる。
では、ボールを打つ瞬間には、どんな会話が交わされているのだろうか。プレーヤーの表情を注意深く観察すると、その瞬間、ホホの筋肉がひきつり、家は堅く結ばれて、懸命に努力し、集中しようとしている様が見て取れるはずだ。
問題は、ホホの筋肉や唇は、バックハンドには必要がないことだ。集中することとも、関係がない。では誰がこんな無駄なポーズを取らせているだろうか。むろん、セルフ1だ。なぜ?セルフ1は、セルフ2を信用していないからだ。セルフ1は、自分が命令し、その周囲を飛び回って励まさないと、セルフ2は任務をやり通すことが出来ないとみなしている。要点はここにある。セルフ2には、その時までに開発された最高能力が内包され、セルフ1の命令システムとは比較にならない優れた実行システムが備わっているにも関わらず、セルフ1は、セルフ2の真価を認めていないのだ。
プレーヤーは命令を浴びせられ、気持ちが先に立って、必要のない筋肉にまで、スイッチを入れてしまう。手首はぎくしゃくし、ボールは無辺世界を射るように、バックフェンスに当たってしまう。「何をししてるんだ、いつになったらバックハンドがちゃんとできるんだ、いい加減にしてくれよ」。セルフ1が、ため息まじりに非難する。考えすぎ、努力しすぎたために、全身が緊張し、筋肉同士が邪魔をし合ったのだ。責任はセルフ1にある。しかしセルフ1はそうは考えない。セルフ2を責め、次の機会にはセルフ2をさらに信用しなくなる。
その結果、ストロークはどんどん悪くなり、プレーヤーは上達しないだけでなく、テニスを楽しいとは感じなくなっていく。
…………次の節で、どのようにしたらセルフ2がその能力を発揮できるのかが書かれているのですが、今日はここまでにしたいと思います。