『社会は「私」をどうかたちづくるのか (ちくまプリマー新書)』
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ISBN:B0F3NV2YC2
なぜ「私」は、今のような「私」であるのだろうか? 他者との関係性からより広い社会的状況までに影響を受け、「私」という存在は複雑にかたちづくられている。社会学のさまざまな観点からその成り立ちについて考え、「私」と社会をめぐる風通しをよくする手がかりを示す。 【目次】第1章 数字でみる「私」/第2章 他者と「私」/第3章 現代社会における「私」/第4章 つくられる「私」/第5章 語られる「私」
読書メモ
第1章 数字でみる「私」
1 時代のなかの「私」
全体としてまわりに合わせた方がいいという感覚が強まっているなかで、自分をうまく使い分け、波風立てずにふるまうことのできている自分自身に満足して、まあそれでいいかと思っているというのが近年の若い人たちの自己意識の総体的傾向なのではないでしょうか。
2 社会的状況による「私」の違い
「性別」
男性の方が「自分が好き」で、「他人とは違った自分らしさ」「自分の主張」を押し出していくような傾向があるといえます。一方、女性の方が肯定回答率の高い項目が多く、まず「自分がどんな人間かわからなくなる」傾向や、「今の自分とは違う本当の自分」「今とは違う人生」についてより思いを馳せる傾向があります。また、「大切なことを決めるときに自分の中に複数の基準があって困ること」がより多く、「ふるまい方が場面によって違っている」ことや「うわべだけの演技をしているような部分」をより感じてもいます。
→女性の自己意識は「定まりがない」のではなくライフコースやコミュニケーションの多元性に対応して生じた「感度の高さ」ということもできる
「学生か有識者か」
→学生のほうが、自分らしさやなりたい自分、自分にしかできないような仕事や活動が大事にされている
「経済状況」
→暮らし向きのよい若者のほうが「今の自分が好き」「今のままの自分でいい」「自分なりの生き方を自分自身で選べている」「これからの人生で大事にしたいことがはっきりしている」と回答
3 「私」のあり方と「社会」への向き合い方の関係
重回帰分析の結果
https://gyazo.com/ebd662b2b812cd679b36218c02bfd48a
自己肯定感の効果は社会への態度との関連が意外に乏しい
啓発的態度は学術への否定的な態度と社会貢献志向に正の効果
内省的態度は調査項目すべてに有意な効果
同調思考は権威主義と関係
第2章 他者と「私」
1 「役割」と自己――ジョージ・ハーバート・ミード
https://gyazo.com/a6b311502ba7907ac2bc6eeb6c08fbf8
社会学的自己論のはじまり
G・H・ミードの先駆者
ウィリアム・ジェームズ『心理学』
自己は「主我(I)」と「客我(me)」の二重の側面を持つ
Iは考える存在としての自己、認識の主体としての自己
meは認識されるものとしての自己
物理的客我…自分の衣服や持ち物、家族
社会的客我…自分自身が他者から受ける認識
精神的客我…能力や性格などとして捉えられる内面の傾向
チャールズ・ホートン・クーリー『人間の本性と社会秩序』
「鏡に映った自己」…私たちは自らを直接認識できず、他者という鏡を通してはじめて自らを認識することができる
自我の発達と役割取得
主著『精神・自我・社会』での主張
「自我は生まれつき存在するものではなく、社会的経験や社会生活のプロセスで生じ、発達する」
自我発達するプロセスは「ごっこ」遊びと「ゲーム」活動
集団の内部で組織されている役割を取得していくことで自我は発達する=「一般化された他者」
「◯◯としての私」=me
2 「相互行為」と自己――アーヴィング・ゴフマン
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相互行為とフェイス・ワーク
『儀礼としての相互行為ーー対面行動の社会学』
人はそれぞれ言葉や身ぶりを通して、その状況に対して自分がどう向き合い、どのような人間としてそこに異様を示している=「方針(ライン)」
この方針(ライン)を通してどのように自分を見せたいのか、見てもらいたいのかという自己イメージ=「面目(フェイス)」
相互行為の場において人々は自分の面目を保つべくその場にふさわしい行動をとり続ける=「フェイス・ワーク」
自分の面目を守るためには相互行為状況のなかで相手の面目も保たれるように振る舞う必要がある
イメージとしての自己/プレイヤーとしての自己
上述の面目=「イメージとしての自己」
イメージとしての自己を保持するため、偶発的なことが起こりうる場面において自己呈示を工夫し、他者の印象操作を行っていく=「プレイヤーとしての自己」
eg.誰かの面目を侵害した場合→プレイヤーとしての自己のパフォーマンスの問題として謝罪・弁明
「役割距離」=通年で期待されている役割に没入するのではなく、そこから自己イメージを引き剥がそうとして生み出される間隔
eg.校則を守りつつも推しのキーホルダーやアクスタを持ってくる生徒
自己はささやかな調整によって成り立っている
『アサイラムーー施設被収容者の日常世界』では精神科病院でのフィールドワークをもとにした本
「全制的施設」では生活時間のほか、さまざまな場面で自己決定が剥奪されている
3 発達課題としての「アイデンティティ」――エリク・H・エリクソン
https://gyazo.com/b90a5aa152ed60f0c4d0b99280ab87cd
青年期におけるアイデンティティの獲得
自己についての3つの見方(ゴフマン)
「社会的アイデンティティ」当人をどのようなカテゴリーや属性によって捉えるか
「個人的(パーソナル)アイデンティティ」身分証明書やこれまでの人生で起こった出来事の組み合わせなどから、その人が自分自身であると捉えられるもの
「自我(エゴ)アイデンティティ」ゴフマンは他者との関係性から考えてきた
エリクソンは人間の一生を心身の成長・発達という観点から8つの段階に捉える「ライフサイクル」論で有名
段階5つ目の青年期の課題が「自我アイデンティティの感覚」の獲得
自分自身こうして生きていきたいという同一性・連続性の自覚と、他者・集団・社会が認め受け入れてくれているとい自覚の調和により感覚が得られる
試行錯誤するプロセスが必要→「心理・社会的モラトリアム」
アイデンティティ論からの若者分析
1970年代ごろの日本における「青年論」
エリクソンの議論は当時の若者が異議申し立てを盛んに行っていた時期だったが、日本ではその後政治的な無関心が広がった(「しらけ」の世代)
小此木啓吾『モラトリアムの時代』→モラトリアム自体の位置付けが高まっており、若者を中心として上の世代にも広がっていることを指摘
栗原彬『やさしさのゆくえ=現代青年論』→若い世代の感受性とやさしさは社会を変える
第3章 現代社会における「私」
1 「心」への傾斜
制度から衝動へ
片桐雅隆(1991)→現代社会における「私化(privatization)」傾向について指摘
公的な側面の重要性の認識が弱まり、プライベートな側面に関心がよっていく傾向
ラルフ・ハーバート・ターナー「リアルセルフ」論
人々は「本当の自分」だと思える自己像を持っているが、この基準が「制度」的なものから「衝動」的なものに変化していることを指摘
社会的な目標より自らの中に発見、自己と社会の調和よりも自分の「心」を重視
感情労働と「本当の自分」
アーリー・ラッセル・ホックシールド『管理される心ーー感情が商品になるとき』
https://gyazo.com/2a89f990da61f573fe2332dee6fd5d08
「感情労働」=感情を管理(マネジメント)すること
「表層演技」つくり笑いなどの表情や驚いた振りなどの身ぶりによって取り繕われる感情
「深層演技」深いところで装うことにことによって自分で自分を変えたりすること。このような場合はこう感じるのが望ましいという「感情規則」を参照しながら行われる
客室乗務員や集金人などを事例にして、感情労働が商業的に利用される場合に何が起こるかを詳細に検討している
客室乗務員は温かさや安心感、親密さの提供が期待される
集金人は債務者に対して怒り、脅し、威嚇して追い立てることを要請
客室乗務員の感情労働
みっちりとした研修のなかで嫌な乗客への怒りの対処方法を学ぶ
深層演技の技法として例示されるのは、相手には嫌なことがあったのだろうと思うこと、相手を子どものようなものとみなす
上記のようなことを行っていると「私たちが重んじている自己の源泉をしばしば使い込む」ことになる
素の自分のまま感情労働をすると、問題が起きた時に心理的ダメージを直接受け、燃え尽き症候群になる恐れがある
「演技している」と意識しながら仕事をすると、他人や自分自身を欺いていることがストレスになる
悩みをやめて演技をやめてしまうと、多くの場合は仕事そのものが成立しなくなってしまう
組織的に感情労働が要請され、道具のように利用される時、感情の「シグナル機能」が損なわれる
怒りを解消するような深層演技の技法を学ぶことて以前なら怒っていたことに怒らなくなってくる→これは感情のシグナルに背を向けることになる
感情の管理が進展していくと「本来性(authenticity)」への関心が高まってくる
「管理されない心」「本当の自分」への希求→心理療法、自己啓発書の普及
「心理主義化」が意味すること
森真一『自己コントロールの檻ーー感情マネジメント社会の現実』
心理主義化…社会から個人の内面へと人々の関心が移行し、「共感」や相手の「きもち」あるいは「自己実現」などをより重視するようになる傾向
心理主義化には「ポップ心理学」=「心の専門家」による「心」を巡る知識・技法の提供が大きく関わっている
eg.自己啓発書、就職活動の自己分析、学校教育における「心の教育」
ポップ心理学の広がりによって「人格崇拝」(デュルケム)と「合理化」(リッツァ)が進展
人格崇拝…ポップ心理学を通して自己肯定感を高めるとよいなどの通念が社会に喧伝され、それを高め自らを愛する技法が社会に拡散することでますます強固になる
合理化…自らの効率性と計算・予測可能性を高めて市場に適応していくような態度がますます称揚されるようになる
2 自己の多元化
「飽和」する自己
自己のあり方を調和・統合することがそもそも難しくなっており、そのなかで新しい自己のあり方が芽生えているのではないか
ケネス・ガーゲン『飽和する自己ーー現代生活におけるアイデンティティのジレンマ』
https://gyazo.com/aa53520a0a7288ea756c49b5448a15f4
社会的飽和…社会的な関係性に個々人がその許容量・処理能力の限界まで侵されて飽和状態に達し、それによってさまざまなことに影響が生じている状態
社会的飽和はコミュニケーション・テクノロジーによってもたらされ、このテクノロジーは自己のあり方をさまざまなかたちに開いていくことになる
関係性が広がり、それぞれの状況に合わせたふるまいに対応していくなかで「⚪︎⚪︎としての私」が「群居」するようになる
確たる真実があるという認識が揺らいでいる「ポストモダン」状況では、「⚪︎⚪︎としての私」について何が適切なのかという確たる基準もまた失われ、どのような事故であるべきなのかが分からない状況=「多元症」
自己についての考え方の前提:自己の内奥に一元的に統合された本質的な何かがある
コミュニケーション・テクノロジーの発達に伴いさまざまな関係性に自己が侵されるようになると、上記の本質を自明視する感覚が社会的に揺らぐ
ゴフマンの指摘のとおりさまざまな関係性の中で自己の戦略的操作においてもまだ「本当の自分」が想定されている
オンライン・コミュニケーションと自己
ガーゲンによる別様の自己のあり方を開いていくことができる可能性
シェリー・タークル『接続された心ーーインターネット時代のアイデンティティ』
(90年代当時のアメリカの)オンラインゲームにおけるキャラクター設定の自在性に注目
現実とゲーム畳の双方において異なる自己が存在=「脱中心化された」「柔軟性のある」自己として解釈できる
「ポストモダン」的自己論への批判
ここまでの議論のまとめ
エリクソンの議論
青年期を通して自らのあり方を取捨選択して統合していくことが望ましく、そうでない状態はアイデンティティ拡散として否定的に捉えていた
エリクソン以後はモラトリアムに留まる積極的な意義を見出す議論も現れた
ガーゲンの議論
コミュニケーション・テクノロジーが発達している現代において、自己は「断片化」ないしは「多元化」している
自己の拡散状態を批判するよりもそこに積極的な可能性を見出そうとしていた
片桐(2000)のガーゲンへの批判
自己が関係性の中で構成されるという点はそうだとしても、ガーゲンが述べるほど、その場その場で自由に素材を集めて自らを呈示し、自己をつくりあげていくことはできないだろうと述べた
片桐の指摘は社会学の立場で正統的といえる一方で、インターネットの普及、各種SNSのようなコミュニケーションはますます発達して多様なものとなっており、ガーゲンの議論は当時よりあてはまるところが大きい
現代におけるアイデンティティ感覚の揺らぎ
浅野智彦の研究
自己をめぐる理論上の従来的前提に対する懐疑
自己というものを一元的・統合的にみなし、そうでない状態をアイデンティティ拡散として否定的に評価することは、今日の社会的現実に対応しているのだろうか
エリクソンは集団や重要な他者からの承認の認識がアイデンティティ感覚の確立において重要としているが、現代日本においてはこうしたことが困難になっているのではという指摘
学校から職業への移行の不安定化
消費という活動が生活で大きな比重を占めるようになり、「自分らしさ」の感覚に大きな影響を与える
エリクソンの立論自体が、特殊な社会的条件のもとでなされていたのではないか
デヴィッド・リースマン『孤独な群衆』のなかでは、「伝統指向」「内部指向」「他人指向」という3つの社会的性格を指摘
「内部指向」
19世紀のアメリカのような、人口が増加して社会とその成員の流動性が高まり、資本主義や帝国主義が急速に進展していった状況にみられる社会的性格
自らを強く規範的に統御し努力することで伝統的共同体から自らを力強く引きはがして新しい激動の社会に適応していくような性格である
「他人指向」
周囲の他者の期待や好みに対してつねに「レーダー」を張りながら、変化に柔軟に対応していけるしなやかさと感受性を基調とする性格である
高い生産性が既に達成されて人口が安定してきた社会で現れつつある性格
内部指向により当てはまるエリクソンの議論は、19世紀〜20世紀のある時期までアメリカ社会に適合的だった自己のモデルを普遍的理論として提示したもので、その通用性は発表当時既に掘り崩されつつあるのではないか
むしろ、今日において自己の多元化が標準的だといえるような社会的状況にあるのなら、その内実や効果をこそ経験的に考えていく必要がある
現代日本における自己の多元化
浅野(1999)
1992年の青少年研究会調査のデータ分析
調査項目のうち友人関係についての設問を分析し、「状況志向」という因子を抽出
状況志向因子と自己意識に感する設問とを掛け合わせると、自己の多元化と相関していることが明らかに
状況志向因子の得点が高いと、場面によって出てくる自分は違うものだと感じる傾向が強まる
しかし同時に、自分がどんな人間かわからなくなる、どんな場面でも自分らしさを貫くことが大事だと思う、自分には自分らしさがあると思うといった傾向もそれぞれ強まる傾向が明らかになる
関係性の使い分けは自己の多元化につながり自分がどんな人間か分からないという拡散的な感覚をもたらすものの、使い分けた自己のそれぞれにおいて「自分らしさ」を重視し、それを実感している=「複数の自己のどれもが本当であるという「私」のあり方」
辻大介(1999)
若者の自己のあり方は、たった一つの核をもつ同心円上の構造(図1a)ではなく、それぞれに中心を持った複数の円が緩やかに束ねられる構造(図1b)になっているのではないか
https://gyazo.com/5d500fb938268b48457fcf3737e034b4
浅野(2006)
自己の多元化傾向は継続
自分らしさを多元的なものと捉える「開かれた自己準拠」とでも言えるスタイルが若者のスタンダードになりつつある
自己の多元化という傾向は若者にとってスタンダードといえるものになっており、それはネガティブな傾向をもたらしているとは必ずしもいえない
3 後期近代と自己の再帰性
アンソニー・ギデンズーー後期近代と自己の再帰的プロジェクト
https://gyazo.com/5dc68e5ff729f4bc2c007964fb53f675
『近代とはいかなる時代か?ーーモダニティの帰結』(1990=1993)
近代社会特有の性質について考察し、それが自己のあり方の変容に分かちがたく結びついている
人間には自分自身や自らが置かれている状況を観察し、それに働きかけていく「再帰的(reflexive)」な能力がある
eg.日本の江戸時代の農村の状況
田植えや収穫といった農作業や冠婚葬祭などを相互に協力し合う、血縁・地縁的に深い結びつきのある村落(自然村)
農作業などをめぐる相互扶助をはじめ、それに関係した用水や入会地の利用、村落特有の身分関係など、さまざまな掟・しきたりがあり、これらを逸脱すれば制裁として村の人々からの扶助を受けられなくなる可能性があった
基本的に掟・しきたりは遵守することが大前提で、これを変える場合は共同体による合議のもとで変わっていくことになる
上記のように、人々の生活は全体として共同体に「埋め込まれた」状態にあった
人々の人生それ自体が身分や本家・分家、性別、長男か否かといった社会的身分によって分岐が異なる
近代になると、行政上の区分としての村(行政村)が編成されたり、学校制度の導入など、伝統的共同体の掟・しきたりや人々の人生のあり方はより広い社会的文脈のなかに置き直され、どうするか考えられるようになった=「脱埋め込み」
近代社会が継続することは、上記の脱埋め込みメカニズムが社会のさまざまな領域に及美、あらゆることがらが各種の情報のもとで「本当にこれでよいのだろうか?」というかたちで捉え直されるようになること=「後期近代」「ハイ・モダニティ」
このようなとき、自己のあり方にどのような変容が起こるのか
自己の同一性は伝統的共同体の安定した慣習・秩序に埋め込まれていた
しかし、近代化に伴う脱埋め込みメカニズムの進展のなかで上記の慣習・秩序が揺らぎ、「私が今のような私であること」もまた、生まれ落ちた身分秩序のもとで疑われることもなかった状態から、個々人によってさまざまな視点から捉え直されることがらへ位置付けを変えるようになった
このような状況において、自己を「物語」のように編成することで、安定した自己理解を自らつくりあげていかねばならなくなっている=「自己の再帰的プロジェクト」
自己が再帰的な構築物へと変化して聴く近代社会の傾向を象徴するのが心理療法
心理療法は脱埋め込みメカニズムを担う「専門家システム」の一角として位置付けられている
近代化に伴ってさまざまな知識・技術が伝統的な考え方やふるまいを相対化するが、その最たるものが「専門家システム」
人々のふるまいを専門的な観点から説明する営みは、人々に伝わり、学ばれ、取り入れられて人々のあり方を変えていくことにかかわる
心理療法こそが最も直接的に人々の日常的なあり方に介入する専門家システムである
下記の考え方が脱埋め込みメカニズムの帰結として生じる自己のあり方と共振している
自己というものは、自分自身でつくりあげていくプロジェクトのようなものであること
自らを観察し、ふりかえり続けることを通して継続的に行われるものであること
自分自身を観察し、また解釈するなかで、過去・現在・未来へと連なる自己の軌跡ないしは物語を描き出していく必要があること
その軌跡・物語を受け入れ、「私が今のような私であること」を実感できるかどうかは、自分自身にとってその軌跡・物語が「本当らしく」思えるかどうかによること
まとめ
近代の脱埋め込みメカニズムに伴って各種の規範・価値観・関係性が揺らぎ、人々自身かそれぞれの自己をつくりあげなければならなくなった状況において、自己の物語を編成していくための最も「本当らしい」手がかりがあるとみなして人々は「心」への注目を強め、「心」を取り扱う専門知が希求されているのではないか
前節の自己の多元化傾向についても、コミュニケーション・テクノロジーは人々のふるまいや自己のあり方を脱埋め込みを加速させるものと位置付けることができる
ウルリッヒ・ベックーー再帰的近代における個人化と責任
https://gyazo.com/06a67d481f9479904c720e0e629457aa
『危険社会ーー新しい近代への道』(1986=1998)
近代化は2つの段階をとる
一つ目の段階:伝統的共同体の制約から解放される一方で、産業化の進展のなかで確立されていった家族・職業・階級、それらに関連したライフコースといった新たな「伝統」が人々を包摂
eg. いい学校、いい会社に入り、結婚して父親は終身雇用の正社員、母親は専業主婦となる
二つ目の段階:近代化のさらなる進展に伴って、自らの拠って立つ基盤それ自体に向かうようになる傾向を強める=「再帰的近代化」
本書にとってベックの議論で最も重要な概念である「個人化」
二段階目の近代化プロセスにおいて、人々はまったくの個人として社会に投げ出されるようになる
個人化が進展すると「制度化」もまた進展する
中間集団の支えがなくなっていくことによって学校・労働市場・社会保障といった制度に依存する度合いがむしろ高まっていく
個人化と制度化が進行すると、人々の人生に起こることはすべからく自己責任の問題とされるようになっていく
eg. 解雇は個人的な「失敗」、つまりは個々人の努力ないしは能力不足の問題として解釈される
だからこそ人々は自分自身やその「心」に関心を向け、「自己実現」や「アイデンティティ」を追い求め、仕事上のスキルや人生における意思決定能力の向上に勤しむようになる
バウマンのベックの議論の紹介「後期近代において、皆がはまり込む自己同一化のモデルは解体し、個々人がばらばらに自らの人生を歩まねばならなくなった。『椅子取りゲームの椅子』もサイズ・様式が一つ一つばらばらで、自分に合う椅子を探せたとしても短いスパンでそれは合わなくな、人々は自分に合う椅子を探し続けねばならなくなっている」
エリクソンの自我アイデンティティ論は社会において広く共有された安定した同一化モデルの存在を前提にしている→前期近代的
脱埋め込みプロセスないしは個人化の進行により、自己アイデンティティが「個人が自分の生活史に基づいて再帰的に理解する自己」となり、他者や社会による受容の面が欠落している
あらゆるものが捉え直しの対象となっていく中かで、個々人自らが人生経験と各種の資源を自ら再構成して自己をつくりあげていなねばならない
ジグムント・バウマンーー流動的近代における自己の不安定性と格差
https://gyazo.com/d3f37386e2a896bdc6b0cc39a0e1954f
『リキッド・モダニティーー液状化する社会』(2000=2001)
固体のように強固だった前近代の伝統・慣習が近代になって溶けきった結果、同じ状態を保つのが困難になるほどにあらゆることがらが流動的になった現代の状況=「流動的近代(リキッド・モダニティ)」
ギデンズが安定した自己理解の再帰的確立をポイントにしていたのに比べ、バウマンの議論は現代的自己の不安定性により注目
労働環境においては、グローバルな競争がますます進展し、労働市場もますますフレキシブルになるなかで、自らをアップデートし続けて対応することができなければ、人々は「廃棄物」として労働市場から排除されかねなくなっている
今日において「私が今のような私であること」を充足させてくれるのは消費であるが、消費自体グローバルな競争下で次々に選択肢が提示され、流行に乗り遅れたり、選択に失敗すること自分自身が「賞味期限」切れの存在となりかねない
現代で唯一「アイデンティティの核」があるとすればそれは動き続け、変わり続けていることなのだ
再帰的プロジェクトとして自己を感じ取り、実際に取り組んで実現していくことについても社会的な格差がある
アンソニー・エリオットーー「新しい個人主義」とその感情的コスト
https://gyazo.com/658788b3131ab9a974bd6a25abb0c10f
ギデンズの後期近代論を踏まえながら、現代的自己をめぐる感情的側面、特にそのネガティブな側面に注目
先進国に暮らす人々がさまざまなモノおよびシンボルを用いて自己表現し、「私が今のような私であること」を示すべく促されているなかで台頭してきた自己をめぐる新たな態度=「新しい個人主義」
「新しい個人主義」の4つの特徴
1. 「自己の再発明」あらゆることがらを通して自らの変革・改善をを行い続け、また表現することに向かわせる文化的志向が根底にあること
2. 「即時の変化」内省も努力する時間も必要としない、指先一本動かして購入するだけで即時の変身が可能になるようなアイテムが提供され、自己再発明の主要な選択肢になっていること
3. 「速度」次々に現れ出てくる自己実現の選択肢、オンライン上の情報の奔流についていき自らのあり方をかつてなく高速にアップデートすることが当たり前のようになっていること
4. 「短期主義あるいはエピソード性」消費や情報環境の変化に加え、労働環境の変化によって雇用は長期的に安定しないものになり、人々の人生が長期的に耐えうる物語ではなくなり、短期的なスパンで物語を書き換えられねばならなくなっている、もしくはその時々のエピソードの集積でしかなくなっていること
上記の状況から、人々の自己をめぐる不安や恐れが高まっている
消費やオンライン上の表現によってその都度自分の新しい姿を示したとしても、それは即時的・偶発的なものにすぎず、常に再創造が求められる
自己をめぐる経験的研究へ
エリオットの議論は先進的すぎて個人的についていけないと思うところがなくもない
もう少し弱いかたちならエリオットの議論は若い人たちにあてはまる側面があるかも
第4章 つくられる「私」
1 「自己」を歴史的に捉える
「感情史」というアプローチ
文書資料の分析を通して時代による感情のあり方の違いや変化を研究
ウーテ・フレーフェルト『歴史の中の感情ーー失われた名誉/創られた共感』(2011=2018)における「名誉」についての考察
19世紀のヨーロッパでは名誉を汚されたことに対して命をかけた決闘が行われていたが、20世紀の中頃にはそうした状況は見られなくなっていた
感情史に取り組む人々の中でも、人間一般に共通する普遍的な感情を想定するかどうか、その想定をどれくらい研究に盛り込むかどうかは立場が分かれている
ノルベルト・エリアスーー『文明化の過程』と自己抑制
https://gyazo.com/1f8faf511ef8ea5e2eb679f6cf3c5b05
『文明化の過程』(1939=1977・1978)の序論において、「近代の人間像」の批判的検討が必要であると指摘
「情感と制御の構造」のあり方はいかにして変化し、「近代の人間像」が自明視されるような状況に至ったのか
エラスムス『少年礼儀作法論』から見る礼儀作法の変化
礼儀作法に伴われる感受性や情感制御のあり方といったごく個人的に思われる事柄が、実は人々がそのなかに編み込まれている社会構造と分かちがたく結びついている
イーフー・トゥアンーー「個人空間」と私的感覚の誕生
https://gyazo.com/b176dd6c08fdc8c7ef057886386c4e2f
『個人空間の誕生ーー食卓・家屋・劇場・世界』(1982=2018)において、人間が「自己とは何か?私とは誰なのか?」といった疑問をいだくようになるには、集団から心理的に距離を置く能力が、そしてそれが物理的に可能になる空間の「分節化」か必要だと述べている
2 ミシェル・フーコー――言説・テクノロジー・主体化
https://gyazo.com/e89d415d4863e43fe0a34a8b4689fa34
「知」の軸ーー言説分析という方法
『狂気の歴史ーー古典主義時代における』(1961=1975)
「狂気をめぐる体験」が歴史的に変化していく中で、狂気が「精神の病」として位置づけされるようになっていったことが論じられる
『臨床医学の誕生』(1963=1969)
身体の表面のみを観察していた医学のまなざしが、身体の深層に埋もれている「不可視なもの」をを暴き出そうとするものへと変更することで、実証的医学の出現が可能になった
上記2冊に共通するのは、人々の認識や経験のあり方を総体的に規定する「知の枠組み(エピステーメー)」が個々人に先立って存在する構造のようなものとしてあるという見立て
当時のフランス思想状況が「人間」の可能性を至上のものとして考えるような状況に対して、「人間」の認識や経験のあり方は各時代における知の枠組みによって規定されており、それは時代を追って順に進歩・発展していったというような単純な話でもないのだ、という批判を提出
『言葉と物ーー人文科学の考古学』(1966=1974)
「人間」の可能性を至上のものとする知の枠組みは、世界のあらゆるものごとを「類似」のまなざしから関係づける16世紀まで、すべてを「表象」のもとに秩序づける古典主義時代(17〜18世紀)という変転をたどった末に、18世紀末に「人間」を歴史のなかに位置づけられた有限なものとみなす知の枠組みが現れ出てきたことに由来していることを明らかにした
『知の考古学』(1969=2012)
「言説」の分析というアプローチの提案
「語られたこと」そのものの水準に注目
eg.著者の研究の例「少年犯罪の語られ方」(牧野 2006、2025)
戦後から1960年代頃までは「社会の歪み」や「差別」が少年を非行に走らせていると新聞・雑誌で一様に語られる
70年代以降になると「学校」や「家庭」でのストレスが原因だと専ら語られるようになる
90年代後半〜今日に至るまでは少年の異常な内面=「心の闇」が原因だと多く語られるようになる
語りの変化は誰かの意図通りにそれが形成されたということではなく、独特の秩序(「生態系」や「磁場」といったいったイメージ)がある
「語られたこと」という独自の水準は、私たちの実体験における各種の出来事が一つ一つ固有の重みを持っているのと同様に、固有の出来事ないしは事実としての重みを持っている
「権力」の軸ーーテクノロジーが生み出す「主体」
フーコーが考えようとした「権力」は権力者が上から振るい、自らの意志を押しつけて人々を抑圧するようなものではない
一人一人が日常生活を送るさまざまな場面において、誰かがそれを司っているということもなくいつのまにか行使され、その微細な働きの効果として私たちを特定のあり方で意識し、考え、感じ、ふるまい、語る存在として、つまりある種の「主体」として生み出すような権力に注目
『監獄の誕生ーー監視と処罰』(1975=1977)
主体化にかかわるテクノロジーのあり方→「パノプティコン(一望監視装置)」
近代以前のヨーロッパにおいて、犯罪に対して身体刑の占める部分は大きく、公開されるものであった
君主の威信を人々の意識に思い起こさせる儀式的な効果を期待
近代では身体刑から懲役・禁錮・拘留などの拘束する人々の見えないところで執行される刑罰へ代わっていく
フーコーは上記の意向を権力観の根本的な変容の帰結として捉える
新しい考え方・技術論が「規律訓練的権力」
教育・訓練・矯正といった特定の目的のために設けられた施設や空間に多くの人々を集め、そのなかの特定の序列上の位置に人々を個別に配分し、人々同士のコミュニケーションを限定・遮断などして管理し、そこでの活動が規律にかなった有用なものであるかどうかがつねに監視・検査・記録される、というような人々の身体への働きかけのあり方が登場する。
こうした働きかけは多くの場合、何らかの専門的知識にもとづいて行われ、また各種検査の結果も基本的に人々をめぐる知識として蓄積されて次なる働きかけに応用されるので、人々に働きかける「権力」のテクノロジーは人々をめぐる「知」と循環的な関係をとることになる
https://gyazo.com/ee58cb8e6c59dc50bd41d6437c54a6cb
パノプティコンでは、収容者から看守の姿は見えないが、もしかして見られているかもしれないという気持ちで自らの行動を制御する=規律を自らのうちに備えるようになる
上記の内なる目が備わるとき、看守はもはや必要なくなり、権力のテクノロジーは個々人に組み込まれて自動化する
パノプティコンは監獄のみならず、学校・工場・病院・軍隊などにもあてはま理、近代的な施設・空間が規律の内面化や自動化、つまり「主体化=従属化」を行いながら運営している
『性の歴史Ⅰ 知への意志』(1976=1986)
17世紀以降に現れた規律訓練的権力が「解剖政治」として位置づけられ、18世紀半ばには人々を人口という観点から捉え、その生を集合的に管理する「生政治」という権力のあり方が示される
「自己」の軸ーー「自己の自己との関係」を通した主体化
フーコーの晩年の研究
『性の歴史Ⅰ 』は個々人の内奥にある欲望がその人の本質的な要素であるとしてそこに注目させ、専門家がそこに介入していこうする「自己」をめぐる経験の特異なあり方の現出
これからキリスト教的伝統の影響があると指摘
『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』(1984=1986)『性の歴史Ⅲ 知への意志』(1984=1987)
古代ギリシャおよび帝政ローマ前期の人々が「自己」をめぐるどのような経験のあり方のなかにいたのか
キリスト教的伝統とは異なる「自己の自己との関係」がみられ、そうした関係性を成し遂げるための独特な技法を見出せる
『性の歴史Ⅳ 肉の告白』(2018=2020)
BC4C〜5C頃の教父らによって、自らの欲望を普段に観察・解読し、指導者の助力のもとそれらを駆り出し、神の観想のために浄化・放棄していくような「自己の自己との関係」が現れ出てくる
3 現代における主体化のテクノロジー
フーコーの知的遺産の継承
国内
赤川学『セクシュアリティの歴史社会学』(1999)
佐藤雅浩『精神疾患言説の歴史社会学ーー「心の病」はなぜ流行するのか』(2013)
西川純司『窓の環境史ーー近代日本の公衆衛生からみる住まいと自然のポリティクス』(2022)
海外
イアン・ハッキング『知の歴史学』(2002=2012)
グレゴワール・シャマユー『人体実験の哲学ーー「卑しい体」がつくる医学、技術、権力」』(2008=2018)
カート・ダンジガー『心を名づけることーー心理学の社会的構成』(1997=2005)
ニコラス・ローズーー現代における「心」の統治
https://gyazo.com/ce01a157f30ba036e008ade6a7f74437
『魂を統治するーー私的な自己の形成』(1989=2016)
イギリスにおいて「心」に関わる諸科学が、人々の「心」をどのように説明し、また「心」をめぐるさまざまな問題の解決策をどのように指し示してきたのかを明らかにしている
近代心理学が、統計的な心理測定手法を提供してさまざまな社会的要求に応えることでその地位を確立してきた
フランシス・ゴルトンが19世紀後半に考案した、遺伝による能力の個人差を測定した
正規分布を用いたことで分布の中央に収まる「標準的な」人々を客観的に作り出した
統計による可視化を通して望ましい状態の実現をめぐるさまざまな理論化や実践的取り組みが行われていった
心理検査によって明らかにされた子どもの不適応・非行の徴候は矯正指導の手がかりとして、ジョン・ボウルビィが提唱した「母子分離」の概念は家族の接し方の基礎理論として、多くの研究や実践的取り組みがそこに連なった
上記の傾向は1960年代までで、それ以降は違う状況に変化している
労働の領域では、従業員個々人が企業の目標を自分自身に結びつけて積極的に捉え、自らの責任でコミットメントしていくような態度を身につけることが有効と考えられるようになった
子どもや家族に関する領域でも、家族、特に子育ての主たる担い手と考えられていた母親は、各種の知識・技術を自発的にとりいれ、日々判断していくことが求められるようになってきた
これらの領域におけるした支えを「心」の諸科学が間接的に提供してきた
政策などを通して生の「標準」を押しつける圧力が弱まった「ポスト福祉主義」/自由競争の市場経済に企業・人々の双方がより巻き込まれるようになった「新自由主義」/人々の自律的で自由な意思決定がかつてなく重視される「アドバンスド・リベラル・デモクラシー」の状況
「心」の諸科学が作り出す自律的な、また再帰的ともいえる「自己」のあり方は、状況を生き抜くのに最も適した、また最も求められているあり方である
「人生で起こる問題はすべて自分の責任なんだ」「問題はすべて自分で解決しないといけないんだ」と思うそのとき、私たちは今日の社会的要求に最もよく応えた「主体」、つまりは最もよく統治された「主体」になっている
ローズはフーコーの知的遺産を現代の分析に活用し、「自己」のあり方の来し方行く末を鮮やかに描き出した
現代日本における主体化のテクノロジーー筆者の研究について
牧野智和『自己啓発の時代ーー「自己」の文化社会学的探究』(2012)
「○○力」 を高めよう、「○○する技術」を身につけようといった「自己」に向き合おう、高めようとするような状況は一体どのようにして現れ、そのなかで私たちはどのような「自己」であることを求められているのか
第5章 語られる「私」
1 「物語」としての自己
ケネス・ガーゲンの自己物語論
自己物語をめぐるパラドクス
自己物語研究の展開
2 自己はどこでどう語られるのか――制度とアイデンティティ・ワーク
自己語りと「制度」
ローカルな関心事とアイデンティティ・ワーク
3 自己と社会をめぐる循環へ
自己語りをめぐる循環
「自己啓発」をめぐる循環