『SFの気恥ずかしさ』読んでる
「SFの気恥ずかしさ」を途中まで読んでいるけど、オタクが自分の属するオタク集団の欠点とムラ的集団性の悪口を言っているという点では「黒衣の短歌史」にも通じる 「SFにはびこっている幻想の中では、名もなく力もない個人が、重要な支配的地位にのし上がります。しばしば彼らは世界の救済者にもなります。こうした幻想にだれよりも大きな魅力を感じるのは、疑いもなく、自分が過小評価され、ろくな仕事にありつけないという意識を強く持っている人びと、自分の本質的な価値が、なぜか思い通りにならなかった人生の影に隠されたままだと信じている人びと、それがどういう潜在能力であるかは正確にはわからないが、自分にはもっと大きなことができるはずだと、なによりも根強い確信を抱いている人びとでしょう」『SFの気恥ずかしさ』「SFの気恥ずかしさ」 現代SFというよりはXに流れてくる広告漫画に合う苛烈な、悪口………
物語に救われる、と言うその信念に紛れる気恥ずかしさや自分でも感じる独りよがり感、あるいはこの類を唱えるのは物語にしか救われなかった人間だけじゃないか、楽しくパーティーやバーベキューをするタイプの人間(概念)ははたしてこれを言うのだろうか?感は実はここにあるのかもしれん 「SFの知的限界は、読者と作家の多くがこのジャンルとの係わり合いを、ちょうどメンサの会員権のように、知的卓越性のバッジと考えているらしい、その程度に比例して顕著になっていく」『SFの気恥ずかしさ』「SFの気恥ずかしさ」
トマス・ディッシュ 他人の論を批判する時に「あまりにテンプレじみて単純化しすぎた拙劣な意見」的な意味合いを"この話題は大学に一年生がいる限り、討論され続けるだろう"という言い回しでしていて笑ってしまった 作家が自然科学の初歩過程にあるような素材を思弁的に扱うことくらいまでが限度で、皮肉・新奇な美・読者が自分の属する文明にかかわりを持つか、それについて何かを知っているという前提・成熟した思考を暗示する調子を排除したものが、一部の読者には尊ばれハード・コアSFと呼ばれる、という指摘
「SFの気恥ずかしさ」は1976年の講演だけど、これを読むとやはり『マーダーボット・ダイアリー』下巻の渡邊利道氏の解説を思い出してしまう 「…メンサー博士の「ばかげた」セリフは、本作のコミカルな独白の中で、ずっと空回りを続けてきた「弊機」の「他者性」が「多様性」として認められる感動的なシーンであり、本作が現代SFの先端に位置する作品であることを示している。かつてSFは既存の価値観を破壊するものだったが、現在ではその攻撃性はずっと繊細な優しさに包まれているのだ」『マーダーボット・ダイアリー 下』「解説」
でもディッシュの指摘の背景が掴めないので理解も追いつかない アメリカSF史なんてわからぬ…