置き配的
僕が日頃から感じている「おかしさ」が解消されたような本だった。
1990年代のネットの称揚はなぜここ数十年で急速に絶望へと変わっていったのかという問題にはたくさんの応え方がある。ニコラス・カーによるネットバカやジョナサン・ハイトによるcoddling of american mindにおけるSNS批判。スマホ脳は結構なベストセラーになったようだ。エコーチャンバー現象、ソーシャルメディア・プリズム説、PLURALITY。
著者の立場はこの中ではソーシャルメディア・プリズムに近いように思われる。
「フィルター・バブルというよりも、共依存的な島宇宙である」
それは「コミュニケーション」を偽装したある種のパフォーマンスがわれわれから黙秘権を奪う。
福尾は以下のドゥルーズの言葉を引用する。
なんとなく論理的思考の文化的基盤での、アメリカ的な「結論を先に」が普遍的な論理のようなものとして扱われていることが関係しているようにも思われる。新自由主義はわれわれに「密」(差し当たり、二者択一の選択肢を求められるようなこと、と定義しておこう)を求めてくるというのは、僕が幼少期から感じていた気がする。
黙りこくるような場面を何度も思い出す。
そうだ。僕は「疎の空間」こそ欲しているのだった。(それが哲学においてみなされる「問いの形式を疑って概念を創造する」ことである)
身につまされる指摘だ。
最近はセックスの同意を取るためにスマホのアプリを使うこともあるそうだ。(まさかの佐藤優さん登場!元外交官と30代女性編集者が「恋愛トーク」をしてみた。逃げ恥、麻布競馬場、人たらしの流儀から現代のリアルな性事情まで。)
そこにいったという事実証明としての打卡(中国語で「カードを打つ」)。
ロジスティクスの発達により、。かくいう僕も、方向音痴でGoogle mapを使わざるをえないし、Amazonのほしい物リストに本を入れたりするのがのが、一日中続く躁病的な読書のちょっとした箸休めになっている。
本作は福尾匠が非美学と同時並行で書かれたものであり、その実践編としての要素がある。
日記を書くということは
囲碁的な文体。
最終話直前なので書いておくが『プルリブス』と『置き配的』は連関していると思っている。対面で会話することから遠ざかっていく中盤を経て、最新回では「出口より糸口」という表現が当てはまっているように感じられた。