母語が奪われることについて
中国語で書こうとしたけどあんまり書けなかったので、日本語でメモ。
中国から帰ってきて以降、自分の中に「日本語が不自然」とまでは言わないまでも、なんとなく自分の思考の中心とはなり得ないような存在として感じられるようなことが増えている。ものを書くときはまず初めに中国語を使いたくなるし、店員さんが水を入れようとしてくれた時には谢谢といいそうになり、パソコンで「い」という文字をうとうとする時にはyiとうとうとしてしまう。それに従って、僕がこれまで「過去の事実」として認識していた事実がそれ自体は何も変わっていないながらも、違ったテクスチャーを持ったものに感じられてきているのである。翻訳という魔法をかけられて、事実はそのままに感覚は解けて相対的なものになり、最後には別の体験として解凍される。今の比喩はかなり良いかもしれない。我々は自らの経験を言葉として冷凍保存し、他の人に輸送して、勝手に回答することになる。そして多言語性は自分の中に二つの異なる自分が生まれたような、奇妙な感覚を生み出す。ある外的事象に対して、同時進行的に二人の小人が冷凍保存作業を行う。その過程で解釈のずれが生じて、それを超越する高次の体験としてある事実を受容することになるのである。
これは8/27に書いたメモだけど、1ヶ月経ったらそうでもなくなっちゃったなー😞