殺人出産
村田沙耶香の短編小説。日本語日本文学の授業で扱った。
以下はレポオートに書いた内容。
時に共同体は全体の利益のために個人の生理的欲望や価値観を抑圧する。これまでにないほど多様な価値観を内包した国家やそれをも超える国際的なコミュニティにおいて、その実行においては困難を伴わざるを得ない。新しい規範を導入しようとなると尚更である。本作品は、極端な人口減少を食い止めるという社会的環境に要請されて「産む」ことのインセンティブとして、誰かを「殺す」ことが制度として非常に単純化された形で正当化されたという現代的価値観から大きく逸脱している社会を描き、読者にその制度の導入によって起こりうる困難を追体験させることを通して、単純化されたシステムがいかに複雑な共同体の中にいる個人の個性を捨象することになるかを示唆する試みであると捉えられる。
人間は政治的動物である
全体を通して主人公の一人称視点が貫かれていることによって、個人の社会の価値観の形成される恣意的な過程が鮮明に描き出されている。ストーリーの大まかな流れを整理すると、産み人である姉や殺人出産制度に反対する早紀子、そして小学生のミサキとの関わりの中で、殺人出産制度に対して曖昧なスタンスをとっていた育子が、姉が早紀子を殺すのに手を貸した瞬間「なんて正しい世界に私たちは生きているのだろう」(P.110)と殺人出産制度を正当化したその直後、自分が胎児を殺してしまったことに気づくと、その申し訳なさから「100年後には、狂気とみなされるとしても、私は一瞬のこの正常な世界の一部になりたい」(P.112) と考え、産み人になる決断を下す。
小説の中には、将来研究者になりたいというミサキが「宿題代行サービス」によって友達と金銭の授受を行っていること、蝉を食べることに対する価値観のように、絶対的な善を定義するのが難しい命題が殺人出産制度以外にも多く散りばめられている。それらによって、読者は倫理に関する問題の複雑性について意識的にならざるを得なくなる。特に、「蝉」は冒頭でも結びでも登場していて印象的である。「壊れたような電子音」(P.7)を鳴らす生命としての蝉が捉えられ、その後「蝉スナック」(P.21)として若者に人気の食材としての蝉が書かれている。両者共にその好みは分かれる。前者に関しては直接描かれてはいないものの、「うるさい」「気持ち悪い」として毛嫌いする者もいれば、虫が好きで積極的に捕まえにいくような人もいる。また後者に関しては、「栄養がある」「美容にいい」と肯定的に見る見方もあれば、生理的嫌悪感を感じる人もいる。その好みは、ミサキがP.22で指摘するように、時代によって大きな影響を受ける。また、その中で「虫って生理的に無理で」(P.41)と言っていた早紀子がその後の場面で「蝉の入ったベーグルを口に運んだ」(P.68) のは何か奇妙さを感じさせる。
#世代間倫理 #昆虫食 
話を変えると、蝉は象徴的事物としても効果的な役割を果たしている。蝉はその生涯のほとんどを地中で幼虫として過ごし、地中に出るのはたったの一週間であり、儚さの象徴として用いられることが多いが、この小説においても正義の脆さを表象するものとして捉えることができる。私が産み人になることを決心する場面では、「切り裂かれた腹から蝉の欠片が零れ落ち、足元の赤い水の中へと沈んでいった。」(P.113) と描写される場面は、私が正義の儚さを認識しながらも、産み人になることが自分の中での正義なのだとしてその儚さを棄却するのと重なる。同じく象徴的役割を果たしているものとしては、「正義」を花言葉にもつ百合も同様の役割を果たしている。産み人になることを自分の中の公理として受け入れる過程が「甘く潰れた百合の花に似た感触」として象徴化されている。
このようにして象徴が多用されているのは、非論理的な感覚的で生理的な要素と価値観の核心部分のバイラテラルな作用が示唆されている気がする。論理性を必要とする意思決定において象徴的な要素が実際の考え方に影響を及ぼすことは、基本的に合理的な態度ではない。例えば、殺人事件の裁判において、天気が悪いせいで刑罰が重くなるようなことはあってはならないだろう。しかしながら現実的にはそのようなことは往々にして起こっていることが最近の定量的研究は示唆している。行動経済学の先駆的研究でノーベル経済学賞を取ったダニエルカーネマンらは著書「ノイズ 組織はなぜ判断を誤るのか」において、このような現象を多数紹介し、説得力のある主張を展開している。またその逆で、価値観が生理や感覚に影響を及ぼすこともあると神経科学の研究は示している。スタンフォード大学教授で神経生物学者のロバート・M・タポルスキーは「善と悪の生物学 何がヒトを動かしているのか」で、多数の研究が道徳的に間違っていると判断されるような行動を目にしたり考えたりすると (暴力の場面を見た、詐欺の場面を見た、キリスト教徒が近親相姦の場面を想像したなど)、それが味覚に影響することが判明していることを取り上げている。育子は終始蝉に対する生理的嫌悪感をあらわにしているが、そのきっかけとして「姉が最初に妊娠をして病院に入ったのは、まるで脳みその中を引っ掻き回されているかと思うほどうるさく蝉が鳴いている夏の日だった。その日から私は、夏の匂いの中で蝉の声を聴くと、発狂しそうになる。」(P.26) と書かれているのはまさにその権化である。また、あくまで仮説ではあるが、先ほど提示した「また、その中で『虫って生理的に無理で』(P.41)と言っていた早紀子がその後の場面で『蝉の入ったベーグルを口に運んだ』(P.68) のは何か奇妙さを感じさせる。」ということに関しても、産み人に会えることに対する喜びという、イデオロギーに由来する感情が生理的嫌悪感を和らげたと説明することもできそうだ。
そして、個人が持つ生理的反応は時に奇妙であったり、通常想定される以上の多様性を持っていたりする。極端な例が、育子の姉の環子である。彼女は動物や人間を殺すことに対して快楽を覚える。また、育子に殺意を持たせた高校の教師である福井の女子生徒に対するセクハラもその一例と言えるかもしれない。一方でそれを統制する制度の方は、「恨みから他人を殺したい欲求」を餌にして、子供の数を増やそうという、極度に単純化されたものである。殺人が行われる部屋に監視カメラがない、「産み人」の増やすということしか考慮に入れていないことが伺え、極度に単純化されたものであると言える。殺人が行われる部屋に監視カメラがない、「産み人」の身体的負担が大きいにも関わらず殺人が行われる部屋への通路にエレベータがないなど、終盤にかけて見られるテクストの綻びは、このことを読者にさらに印象付け、システムの中核部分でシステムを壊す契機になる出来事が起こっているというシステムの不安定性が暗示されている。そして、育子のように胎児を殺した罪の償いのために産み人になったり、環子のように殺人そのものに対する欲求のために産み人になったりするというのはこのシステムから逸脱したものである。このようにして単純すぎる規範が、共同体全員の生理的もしくは価値観による動機を踏まえて作られたものではないというようなことは往々にしてあり、それは現代社会の性的規範にも通ずる。村田沙耶香は、そのシナリオを殺人が正当化されるという現代の我々が生きる世界から見ると考えにくい社会に投影して描き出すことで、その状況を客観視することを可能にし、ひいては私たちがそれを教訓にするように仕向けているのではないか。
・近年の遺伝子組み換えの流れを嚆矢に考えていくと、エコ批評的にこの小説を解析できるかもしれない。
ーー「動物や植物の操作」と「人間の操作」はどう違うのか