国語教育と出会い直す
文学界には早熟で文化資本が比較的豊かな家庭で育った人たちが多いためか、「文学教育」というのは何かと嫌われがちなのだが、それを「民主化」する現場というのは非常に重要である。 ・僕の個人的な体験
今では結構な読書家の僕だけれど、小学生の頃は国語が苦手だった。中学受験の模試なんかでは算数の偏差値より10から20低かったような気がする。僕は思考するときにまず言葉を介するような思考スタイルをとらない、いわゆるビジュアルシンカー的な人間なので、文章を書くときには前から順番ではなく一旦図を思い浮かべるような形になる。このスタイルを身につけられるようになったのは、他でもなく英語を使い始めたからだった。文学に興味を持ち始めたきっかけは、受験生の頃に越前俊哉先生の文芸翻訳の本を読んでから、「言語というものの本質」みたいなものを探求したいというような好奇心によるものである。だからこそ、僕にとって国語教育というのはどこか「納得できない」物なのである。 大学に入ってから文学批評、文学理論と呼ばれるものを学んだり、言語学に関して浅薄ながらも知識を得ていくことによって、ようやく文学の「効能」をうまく言語化できるようになったのだけれど、ではそれまで小学生の頃から10年以上学んできた「あれ」はなんだったのだろうという気さえしてくる。 自分と比するべくもないのだけれど、数々の文豪たちもそのような感覚を持っていたようだ。
柴崎友香
ADHD的な読み。
・問題作りの政治性。小説を「読みやすくする」こと。
メディア論の位相。
・外国にルーツがある生徒もいる中で、「日本の文学」を語ること、国語の暴力性について考えさせられることもある。この辺りについては、世界文学を教えることだとか、 ・共に読むこと。学校の教科書というのは、周りの。
・石井光太批判。ある種の読解力の押し付けのようなもの。 ・入試問題の構造
・高校教師の役割
関連書籍