中島隆博
中国哲学
EAA
千葉雅也(門下生)
食べることの哲学
・博覧強記という言葉について
13行の真理が書かれた書
暗唱させられた中国古典がインターネットによって無駄になった?
国文学の授業で和歌をやった時:全部暗記させられる
記憶力とは何か
A I、デジタル技術の誕生:
思考するとは何か?:「共同行為なのでは?」:私たちが、、、:友情と共に哲学する(ニヒリズムの打倒?)
(あるいは身体と共に?)
啓蒙により、個人主義が発達し、自由がもたらされた。極致としての新自由主義だろうか。
トマス・    インティマシー、インテグリティ
インテグリティ:完全性=完成性?、分割できない、関係=外在的
インティマシー:分人的
ーーインテグリティの絶対化
思考=所有物
・感情(情動)や共感の問題ーヒュームやアダムスミスはここに道徳の基礎付けを行なった(カントなどは内面の理性に基礎づけた)
ヒューム曰く、理性というのは感情の一般的な穏やかな規定でしかない
=感情の制御が問題になるーー人為的な変更が必要
例:ケアの現場における感情労働ーー制御された共感が必要
ドゥルーズを引用:自然な社会性として存在する共感の中に矛盾が露呈している。共感を、、、その他の感覚と統合していく:自然を超えた形而上学として問うていかなければならない
ショーペンハウアーやルソーは、「共感している」という事実に満足するが、やはり「共感」とともに可塑性を持って変わっていくべきだ
孟子:
戴震:孟子の概念をたどるーー能動的で、関与する読解
礼とは情の問題だ。情が厚くなっていかなければいけない。そのための規範として存在するのだ。
マイケル・ピュエットはこの規範を考え直している。はっとする(驚き=齟齬の誘惑)を拡充していく努力が必要。
忍びながら忍びざるような思い。仁の再考。Human co-becomingというザラザラな英語。英語に教える。(マイナー文学)
他者と共に人間になりゆく。
デカルトの我思う故に我ありって、「共にある」ことが前提だとあり得なくない?
自己同一性の揺らぎ:複数形の私sしかない:Japans
「もの思う」ーものは客観的な対象なのか?ものとは何か?(そういう間がある)=そのエージェントとして客観の「私」
:一人称複数代名詞
(柄谷の批判:遊動論)
仏教修行:誰かと一緒に向かい合わなければならない。一人で悟ってしまう場合もあるが、他の人に確かめてもらわなければならない。
贈与のための説法=知識は「蓄える」べきものではない
禅においては、「わけ与えて共有する」知であるべきだ。
・AIについて考える
現代において、知は外在化されている。
ーーならば
「壁打ち」というワーディングーー出口康夫のAI親友論(フェロー=仲間とするべきだ)ドラえもん的イメージ
ーー道義的な責任は?
マイルドな悪に開かれたAI
我々としての自己ーself as we ーインタラクションの中での変遷ー自己とは、全体の中で構成されるもの(意味の場の必要性)
ーーweが悪い場合
動物について、アニマル人(奴隷ー主人としての規定)
more-than-humanとしての動物(ピーター・シンガー)
intimateな関係
古典とはその最終章が常に読者によって書かれるものだ・(蓮實重彦)
自分に対しても、古典に対しても共有すること。それが教養のあり方ではないか。
読むー書くとは「傷がつけられる」ことだ。
ドゥルーズとガタリは、哲学とは何かで無条件の概念の創造だ。そこで、「私」は突破されなければならない。
ここの「諦め」=どうでもよさ、粘り強く。
時代を超えて繋がるーー
さとりとは何か、ではなく「how」ではないか。行為遂行的なものが必要。
古典とは、読む人を揺さぶる:めくることを拒ませる:次は何が来るのか:壮大さ
ごっこ遊び:例=「かのように」の関係=想像力の次元、ハビトゥスとしての
内在的な超越:京都学派
文字=真似ごと=身体=単語をアルフベットに分解ー身体
分断に対する修復的正義ーーネルソン・マンデラの真実和解委員会、共同体自体の癒しーーTransitional Justice
サブカルチャーの次元において:伝統的にも結構あるんじゃないか
アニミズムとの関わり
無理強い、ザラザラ感を原典で感じるーテクストにたえる
古典を読むことによる、リズム:転調の発生