カントと嗜好品
「目的も手段もない快楽」という観念は、実際には不可能なものに見えなくもない。
だが、むしろこう問い直すべきではないか。
もし快楽があらゆる目的や手段から解放されたときにこそ、私たちは「存在そのもの」に最も深く触れるのだとすれば?
「あるものはある」という、一見自明でトートロジー的な命題のうちに、私たちが世界と出会う最も根源的なかたちが宿っているとすれば?
存在とは意味や有用性を超えた出来事であり、その出来事に感応すること――すなわち、意味以前の次元で「あること」に震えること――が、真に目的なき快楽を可能にするのではないか。
ドゥルーズは、「存在の一義性」をすべての存在を、差異と生成のうちにあるものとして等しく肯定するものとして捉えた。そこには、価値の優劣も目的の階梯もない。ただ、多様なものがそれぞれに生成し、流れ、変化しているという現実がある。快楽はこの運動に同調するかたちで、目的や機能の外側でひそかに立ち上がる。それは「〜だから快い」のではなく、「あるから快い」という、存在論的な共鳴としての快である。
このような快楽を感じ取ることができるためには、感性の訓練が必要だ。
それこそが「教養」の本来的な意味である。教養とは、知識の量でもなければ、文化的資本の競争でもない。むしろそれは、世界の複数性と生成性に対して開かれたまなざしを持ち、既存の枠組みに回収されない仕方で「あるもの」に触れようとする感受の技術である。
言い換えれば、教養とは、「あることの快」を感じ取る力なのだと思う。