scrapboxをどう活用するかというのは、僕にとって何度も考え直したテーマであるということは、scrapboxと題名がつけられたページが、半年も経たないうちに4つにまで達してしまったことが明らかにすることだ。
僕は最近、scrapboxから離れて生活してきた。そして、本を貪り読んだ。僕は、書くことを中断した時するとほとんど必ず起こる現象だ。
その中で、僕を最も苦しませたのが、千葉雅也先生によるドゥルーズを扱った博士論文、動きすぎてはいけないだ。ドゥルーズがヒューム(連合説や分離、個の集合が全体に還元されないというカオス理論やシステム科学が探求しようとしたのと同様な性質=還元不可能性=デカルト批判を、私の内部、そして個による社会の形成が包含しているということ)ーベルクソンーニーチェの順に考察対象が変遷していったこと、(読む前から知っていたけど)その中でベルクソンについての批判が彼の哲学の形成に大きな影響が与えられたこと、ネグリとハートのマルチチュード概念の形成に一役買ったことなどの断片的な事象が、困難と共に僕の頭に入ってくるのだけれど、残念ながら総体を僕が納得するまで理解するには至っていない。
しかしながら、本書の狙いがどこにあるかというのは、序章の段階で、比較的明晰に語られていたような気がしている。
「接続のドゥルーズから切断のドゥルーズ」だ。
これまで、僕のscrapboxというのは、基本的にその「ハイパーテクスト」を構成できるインターネットが可能にしてくれた便利な機能を使って、「あらゆる知識を、語と語の配線によってとことん繋げよう」とする試みであると要約することができるような気がする。要するに、接続のドゥルーズだ。(レーモン・クノーの実験が有名)
これは動きすぎではないか、と僕に言いたい。
一方で、極度に制度的になり過ぎようとしているのではないか、と問いたい。
ツリー(繋がりが少ない=制度にがんじがらめ)ー良いスキゾ(動きすぎでない)ー悪いスキゾ(動きすぎ)
最近の僕のテーマは、正しい擬(松岡正剛の概念だ)をどういうふうにして実践するかということに集約される。
ルーマンがはじめ?