Maniac
最初のパートはフォン・ノイマンの人生(純粋数学の探究、ゲーテルの不完全性定理の証明からの応用分野への転換期、原爆開発に携わった第二次世界大戦期、残酷までな合理性が生み出したゲーム理論の応用としての相互破壊確証が成立する頃、AIの予見、プログラム内蔵型コンピュータの開発、人工生命の探究、そして狂気がかつての天才科学者を最も簡単な足し算さえもできなくしてしまう死について)が、彼と同時代を生きたリチャード・ファインマン、彼の最初の妻、2番目の妻などなどの視点から複合的に描かれ、その中に登場した囲碁というゲームにナレーター、あるいはノイマンが中に抱えていた怪物が乗り移るかのようなモンタージュでつながれ、中国で誕生して以来4000年近く嗜まれ、それでも人間がその必勝法を編み出すことのできないいわば芸術的、あるいは魔術的アウラを感じさせてきたそのゲームが、天才的知性がアルゴリズムとデータの力で生み出したAlphaGoという応用統計学の構築物=怪物によってあっけなく征服されていく。前作恐るべき緑と同様に、虚構と現実の間を曖昧にしたような(フィクションとノンフィクションの間)形で描き出すことによって、科学技術の発達、怪物的とさえ映るような圧倒的合理性が人間に対してもたらす影響について考えさせる。 ベンハミン・ラバトゥッツは、これを露骨なまでに直接的に扱っている。もはやそこに比喩=メディアが介在していないかのような言葉の羅列に、僕らは転がされる。前作恐るべき緑はラテンアメリカ文学で伝統的に使われてきたマジックリアリズムの手法が現代社会に溶け込むことによって独特の効果をもたらしていたが、今作はどちらかというとジャーナリズム的な描かれ方がなされていたためか、僕にはその圧倒的な感覚があまり伝わってこなかったのは少し残念だ。 今作にも、その循環はノイマンとAlphaGoの二重の構造として生きている。一見して「二重奏への退化」に見えるこの手法は、伝統的にラテンアメリカで営まれていた社会の構造に比べて、現代社会が見えにくくなったということを示していて、それでいながらも、現代社会が「都市」として「自然」とは異なる対象として見せかけているものが、実際にはその「自然性」の牢獄から逃れることができないでいる我々の社会に対応しているように思われる。
なお、今作は作者の母語ではない英語によって書かれた最初の作品だ。僕はスペイン語に馴染みがないのでわからないのだけれど、多和田葉子や村上春樹、ミランクンデラなどに代表される越境作家に対してなされてきたような翻訳に焦点を当てた批評なんかもできたりするんだろうか。 今のところ日本語の研究はないようだけれど、少し英語の文献も調べてみよう。NewYorkerだとかTimesなんかに批評は書かれるはずなので、その辺りをチェックしてみると吉だろう。