書くことについて 12/6
「一旦休止について」で書いたように、僕は読書の代わりとして、「書くこと」を一つの選択肢として挙げているのだが、これは僕が今まで習慣化することを「巧妙に」と言っても差し支えないまでに避けて通ってきてしまったものである。僕は何度かチャレンジした。「やってみたかったこと」を最優先にしてやっていこうという新年の試みを立てた時とか、小説家が創作術について語っている本を読んだ時とか、スティーブンピンカー先生の「わかりやすい文章とはどういうものか」に関する論考を読んだ時とかに。それでも僕が続けることができなかったということには何か理由があるに違いないだろう。というわけで、その理由をこれから綴っていこうと思います。 まず一つ目は、ライティングブロック的な現象です。普段ぼーっとしている時には何らの障壁もなく言葉が頭の中に浮き上がってくるのに、コンピュータの前を前にしてタイピングを始めた途端何も書けなくなるのです。これは慣れによって解決できる問題であるような気がしています。結局のところ、多分僕は自分のタイピングのスピードに頭の回転が追いついていないのだろうと思います。実際、手書きで書くぐらいゆっくりとしたスピードでタイピングをしたら、書かれた文章の創造性が上がったという定量研究を僕はみたことがあります。 二つ目が、文章が持つものの制約です。文章というのは、左から右への直線的な空間配置によって形成されているというのは、(アラビア語とかは逆だけれども)世界の文化においてある程度共通した特徴でしょう。しかし思考や意識というのは、そのようなある種「人工的」なものではありません。どちらかというと三次元的に、時にはさらなる想像上の次元空間内に、時には図的に、時にはフローチャートとして、時には自然言語として、あらゆる形にカメレオン的な変形をかますのです。文章にそれを完全同型な形で写像するのは、何となく正しくないような気がするのです。僕は伝えられる情報をなるべく僕の頭の中にあるある形を捨象することなく伝えたいと思っています。しかし、自然言語はそれを可能にしてくれないのです。 全体的にみて、僕は今まで同年代のほとんどの人間に比べて、多くて幅広いのインプット量を確保できるように、「自分を失うほどまでに」努めてきたと言っていいでしょう。それはもしかしたら今のところ日の目を見るような役の立ち方をしていないのかもれません。僕にはいわゆる専門分野というものが存在しないために、「知識量の比重が高い」評価基準における世界を生きているのだから、すぐに成果が出ないということは当然のことです。だからこそ、僕の分野で成果を上げるのは多大な苦労を要します。それは裏返してみると、「忍耐力」と「続けるための工夫」が他にも増して重要だということです。そして、僕が今やっているタスクに対する「飽き」を感じ始めている今は、「副業」として、小説家が長編小説を書いていない時期に翻訳をやったり短編小説を書いたりノンフィクションを書くような副次的な要素として、一旦本から距離をおいて自分の手で何かを生み出してみようではないか。
20分で1620文字ぐらい。
このペースだと、文庫本を出すのに20hぐらいのペースだ。悪くない気がする。これを続けていけば、僕は「卓越した」とは言わなくとも、「ある程度の」ライターにはなれるんじゃないか。自信過剰かな。それで何が悪い。反脆弱性。