差別はたいてい、悪意がない人がする
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差別はたいてい悪意のない人がする: 見えない排除に気づくための10章
差別はたいてい悪意のない人がする - 株式会社 大月書店 憲法と同い年
差別はつねに差別によって不利益を被る側の話
メリットを得るがわの人が、みずから立ち上がって差別を語ることはあまりない
私をとりまく言葉や考え方をひとつひとつ確認していく作業は、まるで世の中をあらためて学ぶような感覚があった。私は他人を差別していないという考えは勘違いであり、思い込みにすぎなかった。だれかに対して「真に平等」に接し、その人を尊重するのであれば、それは自分の無意識にまで目を向ける作業を経たうえでなければならない。いわば、自分が認めたくない恥ずかしい自分を発見することである。
確かに心の中では差別したらアカンという意識があるが、自分が認めたくない恥ずかしいことに対してはいい気持ちはしない
これは健常者とか障害者とか関係なく当たり前にある感情なんだよな。rkasu.icon
これは人権としは認めることはできないけど真に平等というのが存在しない前提で考える必要があるなとちょっと思った
イエメン難民の受け入れに反対した人々が挙げたおもな理由のひとつは、「女性に対する性犯罪の可能性が高い」ということだった。多くの女性が、性犯罪への恐怖に共感しているようだった。女性たちの目に映る済州島に来たイエメン人は、「難民」というよりは「男性」だった。そして、イスラムという宗教を持つムスリム男性というレッテルが貼られていた。多くの女性は、ムスリムという言葉から連想する性差別的で暴力的な男性像と、その潜在的被害者である女性という構図から、この状況を眺めて判断をした。このような構図の中では女性は依然として被害者であり弱者だった。難民受け入れ反対は、女性がみずからを守るための正当な要求だったのだ。
ムスリム
イエメン難民
イエメン
難民=危険=性加害が多いみたいな構図つらいrkasu.icon
一方で女性側からの意見もわかる
差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心を持つことも、きわめて容易なことだ。だれかを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。
はい・・・・
別に国がどうとか、生活どうとか関係なく差別は起こる
頭の中の絵、すなわち固定観念だ。この固定観念は、大学に関する具体的な情報にもとづいて形成されたイメージではない場合が多い。
上にもつながるけど固定観念や情報が不確かなものを受け入れるのは差別への第一歩なんだなとrkasu.icon
信頼できる一次情報が大事
でもその一次情報も固定観念の塊の可能性があるから難しい
固定観念は、否定的な影響だけでなく、肯定的に作用する場合もある。いわゆる名門大学に通い、卒業した人は、その大学の出身という事実だけでも「賢くて能力のある人」という肯定的な固定観念を獲得する。一種の有利な偏見だが、これが実際に現実をつくりだす。日常的な出会いや各種の社会的活動において、多くの人が名門大学出身の人に好意を持って接し、活動のチャンスを与えるためである。名門大学の学生は、かれらに与えられるさまざまなチャンスを通じて成長し、能力を発揮することができる。このような循環で、偏見は現実となり、現実がふたたび固定観念を強化するしくみをつくっていくのだ。
実体験なんだけど自分は東京都世田谷区生まれだというと「金持ちだ」みたいなイメージでことが進む
自分はそんなことない
親が離婚していて生活苦しかった
そもそも収入もない
みたいな状況だったので金持ちではないし、それ別に生まれ育った箇所がどこだろうが、貧困は貧困だみたいに主張するつもりはないけど言っている
人形を選ぶ実験
対象者は黒人の児童(3-7歳)
白人と黒人の人形が並んでいて好きなものを選んでいいと伝える
すると60%弱の人が白人の人形を選択した
いい人形と答えた
黒人の人形についてどう思うか聴く
悪くみえる
わからない
と答える
その後自分と似ている人形を教えてと聴くと児童の何人かは泣いてしまった
かなり酷い実験だこれrkasu.icon
でもこれも社会というか人間が作り出した差別が原因だと思う
人の心の中に内面化されたスティグマと劣等感は、不平等な構造を感知する信号
これな。
危ないという危険信号
あなたには差別が見えるだろうか。構造的な差別は、私たちの感覚にとっては自然な日常にすぎない。そのため、差別を認識することは難しい。奴隷制が普遍的だった時代には、奴隷の存在は当たり前のことと認識され、女性に投票権がなかった時代には、それが当然のことと受けとめられていた。
コテンラジオの障害の回でも同じこと言っていた気がする
古代ギリシアの哲学者たちは、人は他人の弱さ、不幸、欠点、不器用さを見ると喜ぶと述べた。
皮肉だね。
でも真理なのかもしれない
究極そういう人はみんな違うって前提でそのズレに対して笑ったり喜んだりするのかも
優越理論
差別する意図はなかった
差別だ!
このよくある定番のフレーズはズレの話
発信者は受けようと思った。場を和ますためにやったという
差別とお笑いは表裏一体rkasu.icon
人を侮蔑する表現の問題を避けるために、社会は言葉を言い換えようとする。「障害者」や「不具」を「障害のある人」(*3)に、「欠損家族」を「ひとり親家族」や「祖孫家族」(*4)に、「混血」を「多文化家族(児童)」に言い換えるなどだ。このような言葉の言い換えは、その言葉にふくまれた無意識の偏見やスティグマを反省する意味がこめられている。しかし、言葉の言い換えだけでスティグマが完全に消えるわけではない。「障害のある人」「多文化」などの用語が、ふたたびスティグマをこめた差別用語として使われているように、単語を変えても、その対象を差別する感情が消えないかぎり、スティグマは消えずによみがえるのだ。
そうなんだよね
単語を変えたからと言ってそのスティグマが消えるわけではない
キムチ女
差別ではなく区別
社員証のストラップの色をかえて正社員と契約社員を区別するみたいな感じ
わざわざ区別する
区別するために区別している
これはどうなんだろうな・・
言っていることはわかるがなんかモヤモヤする
区別することによるメリットもあるはず
でも結局物事にはprosとconsがあって当たり前で何を選択して前に進むかが大事だよねって話なのかも
権力もアカン
排除することが差別につながる
まさに、このようなマジョリティの不寛容のせいで、マイノリティは他の効果的なコミュニケーションのチャンネルを持つことができず、市民的不服従に頼ることになるのではないだろうか。ロールズはこう述べる。「正統な市民的不服従が国内の平和を脅かしていると思われるような場合、責任は異議を申し立てている人々にあるというよりはむしろ、そのような敵対を正当化するような権威や権力の濫用を行っている人たちにあるのである」。マイノリティの「話しかけ」にマジョリティがどう答えるかによって、状況は大きく変わることになる。私たちはデモを批判することもできるが、かれらの話に耳をかたむけ、デモに参加して、一緒に変化を求めることもできる。あなたなら、どのように答えるだろうか。
やっぱり対話だ
対話っていうのはただ都合のいい話をしようではない
マイノリティ、マジョリティ関係なく話す場があることが求められる
デモというのはその申立であり怖いものではない
「黒人も白人も変わらない」という主張なら受け入れられるが、「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命はたいせつだ)」というスローガンは、人種隔離を強化する排他的な主張のように感じる。この運動を批判するスローガンが「オール・ライブズ・マター(すべての人の命がたいせつだ)」だったという事実は、ときに「普遍性」が差別を隠蔽する抑圧のメカニズムとして利用されることを端的に示している。「オール・ライブズ・マター」は、実際には、黒人が経験する差別が表面化しないよう抑えつける効果があるからだ。
排他的な主張わかる
差別を隠蔽したことになる
普遍性はかえって差別を見えにくくして隠蔽することがある
アファーマティブ・アクション
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