訂正可能性の哲学 ゲンロン叢書
https://gyazo.com/ada71261cc6f45cb7258005db16e34b1
上野は二〇〇〇年代の半ば、日本の既婚女性は夫や子どもにあまりにも束縛されているので、老後は離婚し、独居老人=「おひとりさま」として公的なサービスに頼るべきだし、行政もその生きかたを支援すべきだと問題提起を行い、大きなセンセーションを巻き起こした
確かに、言っていることはわかるようでわからないような。
夫と子供に束縛されすぎているのは、多そう
働いていても、そうかも
ただ逆のパターンで夫が妻と子供に束縛されているパターンも確実にある
結婚というのはせずお互いラフに子育てできるといいのかな。。 いやでも責任の重大さがなくなり、一緒に暮らすとは何か?みたいな問が生まれそう 私的に行動するだけでは人間は人間であることができないと主張している。人間は公的な領域に関わるからこそ人間でいられる。私的な領域に閉じ込められていたのでは動物と変わらない。
家族とは閉鎖的なものである
結構今読むと言っていることがむちゃくちゃな本
人権などがないような生活の過ごし方になっている
ヘーゲル哲学は、古くさい有機的な国家観を「大言壮語する言葉の魔術と隠語の力によって」強引に正当化した「部族主義のルネッサンス」にすぎず、まったく内容がない。 これヘーゲルが難しいという言われていることに対するアンサーなのでは?
夫婦がいて子供がいるだけの小さな家族のこと
子供が成人して結婚したら別の世帯を作り今の家を離れることになる
最大で2世帯しか住んでいない
子どものひとりが跡取りになり結婚後も同じ世帯に残り続ける
日本では戦前の旧民法で制度化されていた
女性が結婚したら夫の世帯へ移る
男性の場合は残り続ける
つまり男性側に兄弟がいる場合そのまま何組ものの夫婦がひとつ屋根の下で生活することになる
一見直系家族とかが、昔からありそうなイメージだが、核家族が一番太古からあるとの研究があるらしい 家族の変化は、人々の社会の捉えかたそのものを変えてしまうのである。
別の家族の考え方
前期に主張したこと。なるほど!
ひとは言葉を使ってゲームをしているだけだと考える。
後期に主張したこと。???
発話の意味は、発話そのものをいくら分析しても明らかにならず、発話外の状況によってしか決まらない。ウィトゲンシュタインはそのような状況を「言語ゲーム」と呼び、それこそが自然言語の原初的な条件だと考えた。ひとは辞書と文法書で言葉を学ぶのではない。チェスやサッカーをプレイしながら学ぶように、実際に発話を繰り返しながら、試行錯誤でその規則を学んでいくしかないのである。
いったいなんのゲームをプレイしているのかわからないまま、 ただプレイだけを続けている、それこそが言語の本質だと主張したのだ。
これはわかる
例えば、「石版!」と叫んだとしてどういう意図があって発話したのか絶対に証明できない
もってこい!とい意味で命令したのか。ただキレイだ!とか大きい!という理由で叫んだのか分からない
反論ができない
この言語ゲームは、いつの間にかプレイしていたゲームから全然違うゲームに移ってしまっていたという状況が起こる
家族の比喩を、共同体が閉じているさまではなく、むしろ 閉じることができないさま を意味するもの
家族は閉鎖的ではなくそもそも閉じることのできないものであるとウィトゲンシュタインは主張している
実は加算という1+1=2という事実は事実として証明できないとする論理
いや事実は事実なんだけど+という記号がある所までは+と同じ挙動をするが125以上になると5になるみたいなルールだったとしたらそれはもはや世界共通の事実ではない
正直言うとこんなことは馬鹿げている。
ただクリプキの検証によれば、じつはこの主張に反論することは原理的に不可能である。 自分がなんのゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている」という性格が、けっして自然言語の曖昧さに起因するものではなく、数学や論理学を含む科学的な知一般の条件であることが示されてしまったからである。 うーん。難しい
規則や意味の成立は、原理的には他社を必要とする
クワス算もこれと同じ
加算自体も原理に頼ることができない
お互いそうだねと認識しないといけないので。
家族とは?
新しい「家族」を、ウィトゲンシュタイン的な意味での言語ゲームに参加する、プレイヤーの共同体として定義しよう。規則は変わる。伝統や習慣や価値観は時代に応じて変わる。プレイヤーも入れ替わる。古い世代は死に新しい世代が生まれる。けれども、なにもかもが変わっていくにもかかわらず、参加する家族=プレイヤーたちは、なぜかみな「同じゲーム」に参加し続けていると信じている。その矛盾したダイナミズムが家族の本質である。
うまくまとまっている主張だと思う。
プラトンとかヘーゲルは、家族を閉ざされた存在だと言ったが、実は開閉式だったのだ!!!!!!!!!!
人間的な営為は、労働(レイバー)、制作(ワーク)、活動(アクション) の三つに分けられる
この中でもっとも重要で人間的なものは活動だとアーレントは言っている
労働したり、自己満足のために制作しているだけでは駄目、世間に出て見知らぬ他者と語り合うのが大事 これからは一握りの先進的な資本家=エンジニアと残り大多数の労働から開放された大衆層の二分に分裂すると思う
こういう未来を描いていたが実際まだまだ先の話であるという主張
コロナ化のとき、濃厚接触アプリが作られたがデータが嘘をついていて正直ほとんど役に立たなかった。
これじゃ無理がある
それだけではない。感染者への差別、陰謀論、反ワクチンなどのフェイクニュースの拡散も相次いだ。その担い手になったのがSNSだった。ネットさえあれば物理的な接触がなくても仕事も生活もできるという触れ込みとは裏腹に、現実ではまさにそのネットのせいで社会不安が高まり、二〇二一年一月にはアメリカの国会議事堂が暴徒に襲撃されるという前代未聞の事件まで起きた。 一方でZoomとかUberみたいなものが急速に発達したし、リモートワークも確立してエンジニアにとってはほぼデフォルトで会社に行かなくてもいいレベルになった(中に出社する会社もあるけど) AIに対する感情
現実にはそんなものは実在しないと知っていたとしても、人間らしい心を発見して喜んだり、逆に裏切られた気持ちがして悲しんだりしてしまうだけなのではないか。