洞窟の比喩
洞窟の奥深くに捕らえられている囚人が、子供の頃から手足も首も縛られたまま、洞窟内の火の光でできた壁に映る影しか見ることができないとすれば、その影が真実のものと信じるだろう。プラトンは現実のわれわれがその囚人と同じだという。つまり、私たちが現実に見ているもの(経験できること)は真実ではなく、影にすぎず、それは生まれたり消えたり、不完全なものである。囚人が縛めを解かれて上に登って行って洞窟の外に出たとき、初めは目がくらんでなにも見えないが、目が慣れるに従って影では無いもの、そして太陽そのものを知ることができる。それが真実であり、普遍的で完全なイデアである。
――知的世界には、最後にかろうじて見てとれるものとして、<善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとれたならば、この<善>の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えがいたらなければならぬ。すなわちそれは、<見られる世界>においては、光と光の主とを生み出し、<思惟によって知られる世界>においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ。 <プラトン/藤沢令夫訳『国家』下 岩波文庫 p.101>