ロベルト・ボラーニョの魅力
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この企画は、12月1日から25日まで、一日ごとに楽しい記事が公開されていく企画です。
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ロベルト・ボラーニョはチリ出身の作家です。彼はチリで生まれ(1953-1968)、メキシコで青年期を過ごし(-1977)、スペインで小説家として活躍し、亡くなっています(-2003)。日本では邦訳が十一冊刊行されています。
十一冊も(レイモンド・カーヴァーの村上春樹訳(十三冊)に比肩できる冊数!)邦訳されるほど、ボラーニョの小説はキャッチーなのでしょうか。翻訳家の方によって丁寧に邦訳されているという前提はありますが、ボラーニョの小説は端正なものが多く、大事件に立ち向かうようなスケールの大きな題材は少なく、死にゆく個人を三人称で書いたものや、別れた男女の元に戻らない距離を一歩引いて見つめた小説などに定評があります。
しかし、端正さはボラーニョの小説の魅力の一つでしかありません。
ボラーニョの小説の魅力、すなわち、ボラーニョのオブセッションを大別すると「オタクっぽさ」「暴力」「放浪≒根無し草」の三つに分けられます。
「オタクっぽさ」については、曖昧かつ雑な言い方になりますが、クエンティン・タランティーノの映画を観た後に、アルトゥーロ・ベラーノ(ボラーニョの分身。鳥山明作品のガスマスク男と思ってください)が登場する小説を読むと、ベラーノというキャラクターがどのように造形されたのかが天啓のように分かると思います。
『野生の探偵たち』で言えば、ベラーノを取り巻く人物には女性が多く、ベラーノはダメな感じがする人だけどそれが魅力みたいに書かれていて、美化されたボラーニョの自己像に当てられて、読者のこちらまで恥ずかしくなります。
「暴力」については、もし可能であれば、およそ百人の遺体の描写が淡々と続く『2666』 の「犯罪の部」を読んでください。
女性が男性相手に拷問・殺人を行おうとする瞬間を切り取った「売女の人殺し」でもそうですが、ボラーニョは人体に苦痛が与えられる場面を徹底的に書かない作家です。元軍人の猟奇殺人犯を取り上げた『はるかな星』では、殺害時の様子を撮影した写真の展示会が行われる場面がありますが、実際はそう察せられるだけで、写真の内容は明確に表現されません。そもそも、作中で殺害場面の描写がありません。『2666』 の「犯罪の部」では発見された遺体の描写が続くだけで、被害者(主に女性)たちが危害を加えられる描写は一切ありません。
ボラーニョは、小説における暴力の描写がスナッフフィルムのように娯楽として読まれることを忌避したのかもしれません。
「放浪≒根無し草」について、もっとも鮮明に書かれている小説が『野生の探偵たち』です。『野生の探偵たち』は三部構成の小説で、第一部と第三部はメキシコシティの大学生が詩人(はらわたリアリスト)のアルトゥーロ・ベラーノやその友達のウリセス・リマと出会い、意図せず売春婦と親密な関係になり、メキシコ北部のソノラ砂漠まで逃げ、最後は二人だけでメキシコシティへ帰るまでが、大学生の手記という体裁で語られています。その第一部と第三部に挟まれるのが、総勢五十三名のインタビュー集である第二部です。
メキシコシティで「はらわたリアリズム」という詩の運動を推進していたベラーノとリマは、紆余曲折を経てソノラ砂漠でギャングのメンバーを殺してしまったために、それぞれメキシコを離れることになります。ベラーノはすんなりとスペインに落ち着き、そこで不安定ながらも新たな生活を始めます。リマは、パリでゴロツキに騙され、イスラエルでネオナチの若者と一緒に拘留され、ニカラグアでは行方不明になったりしたのちに、メキシコシティに帰り着き、目の敵にしていたオクタビオ・パスと和解します。
ベラーノとリマが世界の放浪を始めたきっかけはソノラ砂漠での殺人であり、その後も(特に)リマは世界の暗い部分ばかりを放浪することになります。それぞれメキシコシティから消えたベラーノとリマは、フランスのスペイン国境にほど近い港町ポール・ヴァンドルで再会し、その後は二度と会うことはありません。
リマを訪ねてポール・ヴァンドルまで来たベラーノが、始めはリマに会えずに数ヶ月を無駄に過ごした後で、ついにリマと再会した時に二人が大袈裟に振る舞う場面が、いかにも放浪する田舎者たちという感じがして微笑ましい気持ちになります。寂れた食堂で出されたサラダをプロヴァンス風サラダだと賞賛したり、シャンパンを注文するものの、寂れた食堂にシャンパンのストックはないためワインで我慢したり。ポール・ヴァンドルで別れて、ベラーノはスペインに、リマはイスラエルへと向かいます。
リマはテルアビブ在住の女友達のところに身を寄せ、ネオナチのオーストリア人と出会い、彼とオーストリアに逃げ帰ってそこで強盗に身をやつします。そして送還される形でオーストリアから追い出され、メキシコへ帰ります。最後には、前衛的な詩人を自称していたリマはオクタビオ・パスと和解します。リマは地獄を巡りながらもメキシコに帰り着く運命にありましたが、ソノラ砂漠で実際に人を殺したベラーノはかつてチリを失ったようにメキシコを失ったまま放浪します。ベラーノは多くの女性と関係を持ちますが長くは続かず、最後はリベリアの戦場に消えます。
『野生の探偵たち』の第二部には、ベラーノとリマほどではないにせよ、根無し草のように放浪する(していた)人物が多数登場します。
この記事の最後に、その中から、エディット・オステル(下巻,126頁)のインタビューの一部を紹介します。
彼女がバルセロナのベラーノの家にいた頃、ベラーノの友人たちやその他の南米人たちは頻繁に違法な国際電話をかけていました。やり方は簡単で、電話機にケーブルを二本ばかり挿せば、無料で国際電話がかけ放題になります。細工された電話は利用者が多いため簡単に見分けがつきます。彼女が語る、夜の電話に人が集まる光景には、ボラーニョの、根無し草の遣る瀬無さが凝縮されています。
特に夜にはその周りに人が列をなしているから。そういう列に、ラテンアメリカの最高のものと最悪のものが一緒になって並んでいるの、元活動家とレイプ犯が、元政治犯と生き馬の目を抜く宝石商人がね。(中略)若者たち、子供を胸に抱いた若い女性、年配の男女、夜中の十二時や午前一時に、そういう人々はそこで何を考えているのだろう?
『野生の探偵たち』下巻,142頁
ロベルト・ボラーニョの小説には、人をセンチメンタルにさせる魅力があります。
とりわけ『野生の探偵たち』には、はしゃいでいた若者時代への郷愁や、人生を浪費してしまう(しまった)ことへの諦めなど、とてもしんみりする描写が沢山あります。
絶対楽しいので読んでください。