視覚伝達設計演習
4.27 第1.2回「PLAY」
PLAY: 遊ぶ、楽しむ、演じる、ごっこ遊びをする 自分的には縛り「プレイ」とかも含む
自分はつくったり考えたりすることを「遊び」だと思っている。自分の「つくる」ことについて最近じっくり考えた(funcのzineや今回の授業をきっかけに)
考えることをやめない限り生きる、自分の脳みそや手で考えなくなったら死んでいるのと同じ
生活と地続きになっていて切り離せないもの
知識による限界はあるが)自分はいつでもどの視点からでも考えることができる。どの立場を取ることもできる。だからいる場所にこだわりはない、考えれば考えるしやればやるから。そういう意味では僕は自分がなく、生活の全てがごっこ遊びであると感じている。空虚であるとかいう悪い意味ではなくて、そういうふうに振る舞ったらそうなるということが面白いからやっている。今所属している領域も、やっていることも、今日きている服も、おしゃべりする人たちも、そういうふうに振る舞いたいと思ったらその時にそうしているだけで、また違う自分として生きることができる。
つくるときもそんな心持ちでやっていて、「自分らしい」ものをつくろうみたいな気持ちはない、自分が見て考えて生み出したものは全て自分らしいものになっていくのだと思うから、執着はない、もし何者かっぽいものになって評価されたとしても、自分がそれの工程やきもちについて説明できないなら終わってる
私はよくドローイングをする。何度も同じことをしているんじゃないかと思う時もあったが、道具や視点で描き方や考えることが変わっているので実は違う種類の基礎練習を繰り返し行っているのかもしれないと今思った。
自分で設けたルールの中で遊ぶのが好きでよくやる。すごい面白いのが、僕はコードとか書けないから自動的で完全にランダムで正確なデジタルシステムでの縛りはつくれないんだけど、自分の脳みそをコンピューターにして自我の中でのルールを作ることはできる。良くも悪くもそのルールに自分の思惑が入ったり癖が入ったり、身体的な限界が影響したりする。僕はそれを面白いと思っている。対照実験や検証をしたいわけじゃないから、ルールを完全に守りきれないこともあって、それも込みで結果が予測できないことが面白い。
自分の行動の習性でしか起こらないことを絵に描けたときおもしろいな~~これはまさしく僕の絵だ!と思った。確実にこの文脈では僕しか見られないものを見て、描いた!と思った