世親の思想とカオス的世界観
時間論に関して
世親は三世実有説を認めていない。
現在の法だけの実在を認めている。
業の因果関係をどう成り立たせるのか?
無我説でなければ解決する
業は刹那滅の全要素の結合状態に影響を与えると考える
「私」の結合状態が変化する。
世親が考えているイメージに従えば、今現在の時点で、この世は諸要素の集まりとして存在し、それは一刹那で完全に消滅する。しかしその存在した利那の要素の状況がなんらかの影響力を残留させ、それが次の利那の新たな諸要素を創成し世界をつくる。このプロセスの連続が時間の流れになるというものである。したがって微少な変化として構成要素の集合体内部に含み込まれた業の影響力も、このプロセスを通して保持されていく。刹那から刹那へと、誰にも見つかることなく、系全体に遍満するかたちで、そしていかなる外力によっても減衰することなく、この力は確実に伝達されていくのである。
このように過去や未来の実在を想定しなくても、善悪の行為により、現在の生命体の中に微少な変移が生まれ、それが次々と伝達され、ある特定の条件が揃った時点で巨大な変容を引き起こし、しかもそれが、おおもとの原因とは全くスケールの違う、似ても似つかぬ姿をとるのだと考えれば業理論は説明可能となる。このメカニズムによれば、先に言った業の基本原則、つまり「善いことや悪いことをすると、①あとになってから、②必ず、③全く違ったかたちでその報いがやってくる」という性質も説明がつく。このようなメカニズムのことを『倶舎編』
そうぞくてんぺんしゃべっ
では「相転変差別」という。時間的に継続している要素集合体(相続)が、ある時点で特異な状態へと急に変化する(転変差別)という意味である Miyabi.icon例えば、シロシビンが統合情報量に与える影響などはわかりやすくこんなイメージ カオス理論
たとえばある数値を小数点一〇〇桁まで測って、「これほど厳密に測定したのだから、この数字をもとにして先の動きを予測すればきっと当たるだろう」と考えてもダメである。一〇一桁目の数字が1か2か、その違いが将来必ず、
未来の動きに大きな食い違いをもたらす。だから一〇一桁目の数字もちゃんと知っておかなければならない。しかし一〇一桁目を測っても、一〇二桁目がわかっていないとやはり正確な予測は成り立たない。結局のところ、その系の状態を「神の視点で完全完璧に」把握していない限り予測は無理なのである~これは、『倶舎論』の中で世親が説く「相転変差別」の理論ときわめてよく似ている。実際、私はこれまでに何度か科学者の前で「相続転変差別」を紹介したことがあるが、反応は必ず「それはカオスではありませんか」という驚きの声であった。一五〇〇年も前の古代インドの僧院の中で思索にふける僧侶たちが、この世をカオス的に考えていたというのはとても面白いことである。
なぜ「相続転変差別」説がカオス的になるのか、考えてみよう。それは決して、仏教が科学を先取りしていたとか、シャカムニの智慧が現代科学の上をいっていたとか、そういう自惚れの話ではない。一番の理由は、理論を設定する場合の枠組みがたまたま同じだったことにある。
人を要素の集合体として見ること。その要素が、特定の決定論的相互作用で結合していると想定すること。業の作用によってそこに加えられた微少な変化が、必ず時間を隔てて全く別の形で結果をもたらすこと。以上の条件を満たすメカニズムを考えていけば、カオス的な理論に行き着くのは当然のこと。もちろん仏教は、それを数学的理論にまで研ぎ澄ますことなどできなかったが、それでもこの世の有り様の本質をかなり見通していたと言うことはできる。シャカムニの教えの根本である「諸行無常」「諸法無我」、そしてすべては要素の因果関係で成り立つという「縁起」の思想。こういった洞察を徹底的に進展させていった先に、現代科学にも通じる世界観が現れるとすれば、やはりシャカムニという人の「ものを見る眼」はたいしたものだと、あらためて敬意が湧いてくる。