カリフ制再興
イスラームは世界をダール・アル"イスラーム(イスラームの家)とダール・アル"
ハルブ(戦争の家)という二つに分けて考えます。ダール・アル゠イスラームとはイスラーム法によって治められている土地です。それ以外の地域がダール・アル"ハルブです。
ダール・アル"イスラームは理念的には一つで、ムスリムであれば、人種、民族、国籍を問わず、たとえダール・アル"ハルブに住んでいようとウンマ(イスラーム共同体)の一員として、だれでも受け入れるし、自由に移動することができます。ダール・アル"イスラームにおいて、イスラーム法を執行して、ムスリムの安寧を守る。そういう役割を負わされた人間がカリフで、そういう政体がカリフ制です。
ダール・アル"イスラームにはムスリムだけではなく、異教徒も住むことができます。キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒も含まれます。彼らはイスラームの秩序を乱さないという誓約をして、ジズヤ(人頭税)という税金を払えば、宗教的に自治を許されて共存できます。ジズヤは定額制で、成人男子にだけ課されます。額については諸説ありますが、有力説では富裕層なら年間四ディーナール、いまだとだいたい七万五千円位と、ひじょうに安いです。中間層はその半分、貧しい人はさらにその半分で、それより貧しいと免除されます。イスラーム法の定める範囲内で、改宗することなく、自分の宗教を守ることができます。
オスマン帝国時代にあった、こうしたダール・アル"イスラームは、植民地支配によって分断され、国境線が引かれます。一九二二年のオスマン帝国滅亡後、ダール・アル"イスラームの諸地域は、植民地支配から独立していきますが、それはダール・アル"イスラームの復活ではありません。国境によって物流と人的移動は制限され、単一のウンマの一員だったムスリムは、それぞれの国家に忠誠と服従を余儀なくされ、ムスリム、異教徒を問わず同じ「国民」としてまとめ上げられてしまっているのが現実です。
カリフ制再興は、このような国境を取り払い、人と資本が自由に移動でき、富の公正で適切な配分を行い、真の意味でのグローバリズムを目指そうとする運動です。そこではムスリムであるか否かを問わず、移動や移住も自由です。いいと思えば住めばいいし、いやならば出ていけばいい。パスポートもいりません。亡命や不法入国を禁じる法的権限もありません。
中田考
カプローニは二郎にこう訊ねる。
「きみはピラミッドのある世界とピラミッドのない世界と、どちらが好きかね」
「ピラミッドですか」
「空を飛びたいという人類の夢は呪われた夢でもある。飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ。それでも私はピラミッドのある世界を選んだ。きみはどちらを選ぶね」
とれに対して二郎は「ぼくは美しい飛行機を作りたいと思っています」と答える。
ピラミッドのある世界とはなにか。それはピラミッドのような途方もない夢に莫大な予算を投じられる財力と、計画を遂行する強大な権力に支えられた社会ということだろう。その夢の実現こそ人類にとって価値のあることで、そのためには庶民が殺戮や破壊などの犠牲を被ることになってもやむをえないとする。それは西欧の帝国主義そして資本主義が歩んできた道といえるかもしれない。
だが、中田さんが唱えるカリフ制とは「ピラミッドのない世界」なのだと思う。そこは特権的なだれかの美しい夢のために、立場の弱い多くの人たちが犠牲になることのない社会だ。それは見果てぬ夢かもしれないし、たとえ実現できたとしても退屈な世界かもしれない。美しい飛行機もピラミッドもそこにはないのだから。
ンのわかる人間とわからない人間を差別していくことになります。そういう考え方が傲慢なんです。芸術という発想にはそういう危険性がある。もちろん、最初は芸術だって聖なるものの象徴を見ていたでしょう。ところが長期的に見れば、どうしても世俗化・堕落を生み出す。
なんどもいっていますけど、イスラームは万人のための教えです。だれもが芸術家になれるわけでもないし、だれもが芸術を理解できるわけではない。にもかかわらず、その特別な領域にあたかも普遍的であるかのような価値を与えていくのがまちがいなんです。食べるものもなく貧しく困っている人たちに、個の表現とか芸術などといっても見当ちがいです。イスラームは芸術を否定しているのではありません。少数の人にしか可能でない芸術という形ではなく、万人にとって可能な神を讃える方法を提示しているということです。
芸術そのものというより、芸術という考え方の枠組みが問題なんです。イスラーム世界には、今でも芸術という概念はありません。日本でも「芸術」という用語が一般化したのは明治時代の翻訳文化の中です。芸術という領域が独立した概念として生まれるのは、それぞれの文化の文脈の中においてです。西洋のように「芸術」という部門が独立した位置を占めているほうが特異なんです。
たしかにイスラーム世界でも日本でも芸術という枠はなくても、工芸や民芸は人びとの生活と一体化して、日常生活を豊かに彩るものとしてありましたね。それに対して西洋の芸術概念は日常生活から離れて、それ自体が純粋芸術(ファイン・アート)
として存在していますね。
中田問題はそこなんです。日常の中から芸術という枠組みを突出させて、それに価値を与えることが問題なんです。たとえば絵を実際に描くことはかまいません。問題は、描かれたものに社会的価値を与えることにあります。学校で芸術を教えることの問題はそこにあるんです。学校では絵の描き方とか、笛の吹き方を教えるだけではなく、それらを通じて「芸術はすばらしい」とか、「芸術には聖性がある」という枠組イスラームでは、すべての価値はアッラーに属します。芸術を賛美する風潮が問題なのは、アッラーを離れたところに価値を求めるからです。芸術は虚構です。その虚構性に価値を見出そうとすることがまちがいなんです
イスラームが神中心の宗教であるということだ。本書にも述べられているように「アッラーのほかに神はなし」とは、アッラー以外のすべてのものにいかなる権威も認めない、ということである。人はアッラーだけに隷属するものであり、それは逆にいえばアッラー以外のすべてのものから自由である、ということである。国家はもちろん、会社や団体や学校など、人為的に作られたあらゆる組織やイデオロギーに人は隷属する必要はない。その意味で、イスラームは人間の本源的な自由を、きわめてラディカルに肯定する。アッラー以外のものに権威を認めることは、なんであれ偶像崇拝にほかならない。問題は、そういうイスラームの本来的な姿から現実のイスラーム世界があまりに遠ざかってしまい、それを人びと(ムスリム自身もふくめて)がイスラームだと思いこんでしまっていることにあると中田さんはいう。