言語学の教室
#本 #単語帳
メタファー思考の著者が先生となり、言語哲学者の生徒に認知言語学を教える本。
文法とは?
広義の文法というのは、たとえば「生成文法」という言い方における文法です。われわれが言語を使用することを可能にしている知識の全体、あるいは、それに関する理論のことが「文法」と呼ばれる。これが広義の文法ですね。 それに対して、狭い意味では、言語知識をさらに語彙の知識と文法の知識に分けて、語彙と区別したものを「文法」と呼びます。こっちの方が日常的に使われる「文法」の意味に近いかと思うんですけれども、これ以降、たんに「文法」と言ったら狭義の文法のことを意味するものとします。
特定の意味を盛る器みたいな感じですかね。意味が内容だから、内容に対して「形式」と呼ばれる。 (西村)そのとおりです。それで、意味と形式の組合わせのことを、ソシュール以来、「記号」と呼んでいます。
(略)そうすると、語彙項目とはまるごと記憶されている記号である、と言うことができます。(野矢) それは、単語だけではなくて、イディオムも含まれますか? たとえば「二の足を踏む」とか。 (西村)そうです。「二の足を踏む」全体でこういう意味だっていうふうに記憶されているはずなので。
イディオムも語彙なんだ。
さらに、語彙項目をいくつか組み合わせて、複合的な表現(その代表が文です)を作ることが必要になります。それぞれの言語には、そうした語彙項目を組み合わせる仕方にパターンがあって、そうしたパターンの集成こそが文法であると言うことができます。
あるいはworkの過去形 の worked に含まれる、"ed も語ではない。こういう語より小さい単位を含む、意味をもつ最小の語彙 項目を「形態素」と呼ぶのですが、形態素を組み合わせて語を作るパターンをまとめたものは「形態論」 と呼ばれます。それに対して統語論は語より上のレベルの組み合わせ方です。語を組み合わせて句を作り、 語句を組み合わせて文を作る。その組み合わせ方のパターンの集成が統語論です。そして形態論と統語論 を合わせたものが文法とされる。
記号というと、「形式と意味の組合わせ」ということですね。 で、この場合「形式」というのは何ですか?
西村 文法的な知識の場合には、語彙項目の場合と違って、具体的な発音や綴りはないことが多いので すが、たとえば「主語+述語」(あるいは「名詞句+動詞」)といった語順を形式と呼ぶのは不自然ではない。
野矢 つまり、「主語+述語」といった形式に、先ほど言われた「スキマティックな意味」が伴って、 それで文法項目も「記号」と言われる。
つまり、「太郎が花子に話しかけた」と「太郎が花子に話しかけてきた」は客観的には同じ事実でありうるのだけれども、 しかし、意味は異なっている。だから、その意味の違いは客観主義では扱えなくて、主体がものごとをどう捉えているか、つまりわれわれの認知のあり方を意味に反映させるような考え方をしなければいけない。
文法化:語彙が文法項目になっていく過程
be going to は助動詞的だと捉えられているんですね。たとえば完了の助動詞 have のように、 相 (aspect) という文法的な意味を表わしているので、"be going to"は従来文法項目とみなされてきたわけ です。しかし、そもそも文法化というプロセスがあること自体が、語彙と文法の境界線が明確でないこと を物語っていて、認知言語学者の多くは語彙と文法が連続的につながっていると考えています。
野矢 そうか。じゃあ、イディオムと区別がつきにくいという私のようなごね方は、
西村 認知言語学にとってはむしろ歓迎なわけです。
Lakoff and Johnsonについて
生成意味論という、チョムスキーの生成文法から分かれてできた理論があって、 ジョージ・レイコフはその急先鋒だったんですが、けっきょくチョムスキー派の生成文法に敗れて姿を消してしまっていて、そのレイコフが一九八〇年に哲学者のマーク・ジョンソンと一緒に書いた本がある、 と。それは知っていたのですけれども、「ま、どうせレイコフだからつまらないだろう」と思って読んでなかった。
野矢え、そんなふうに思われてたんですか。
西村 なんかもう過去の人って感じになってたんですね。多くの日本の言語学者はそう思ってたと思いますよ。勢いはよかったけど、だめになっちゃった人だから、と。で、読んでなかったんですよ。ぼくのまわりは誰も読んでなかったと思う。池上嘉彦先生ですら読んでいらっしゃらなかったですから。でも、ある翻訳家の方がお書きになった翻訳論の本をばらばら見てたら、レイコフ&ジョンソンのこういう本があって、こんなおもしろいことが書いてあるって紹介されてて、 これはおもしろそうだから読まなきゃって思って読んだら、たしかにすごくおもしろかったんですね。
概念とは何か?→「カテゴリー化の原理」
たとえば西村さんという個人をカテゴリー化する仕方は幾通りもあって、人間として捉える、動物として捉える、言語学者として捉える、等々。この「人間として」「動物として」「言語学者として」という捉え方が、カテゴリーであり概念だ、と。そんな感じで
西村そうですね。それで、レイコフとジョンソンはまさにその概念のレベルでメタファーが働いていると考えたわけです。
こう考えると概念メタファがいかに革命的だったかわかるな。それまでの言語学では文字通りの話しかしないから、「議論に勝つ」という1つのテクストのメタファがどう構築されるかにしか関心がなかった。ARGUMENT IS WARが、言葉レベルではなく「概念レベルでメタファ」であることを考えると、そこからいろんな表現が現れてくるのも自然なこと。これはUIのメタファにもいえることだなあ。
MORE IS UPもそう。
そうすると、概念メタファーというのは、なによりもまずわれわれのものごとの捉え方、つまり認知のあり方を説明したものになりますね。「われわれは議論を戦争になぞらえて捉える」とか「われわれはより多いことを空間的な上昇になぞらえて捉える」といったことをいくつもいくつも挙げて、そして、われわれのものごとの捉え方の多くがメタファーに依拠したものなんだということを、きわめて説得力をもって示した、と。
西村ええ。
野矢だとすると、あんまりこれ、「言語学」って感じがしないん
ですよ。
西村 言語学じゃないとすると・・・・・・。
野矢哲学(笑)。
西村ああ。
野矢 心理学と答えてもいいと思うけど、あえて哲学。
実証科学ではなく、哲学に近い。
MORE IS UPは何かの法則ではなく、反例もいっぱいある(痛みが増えても痛みが上がるとは言わない、領土が増えても領土が上がるとは言わない)
たしかにたくさん反例がありそうです。中には何か別の原理を持ち出して説明できるものもあるのかもしれませんが、どうしようもないものもありそうな気がします。それにもかかわらず、MORE IS UP という概念メタファーがあると言ってみせることにどういう意味があるのかと問われると、この概念メタファーを想定すると、「なるほど、だからそういう言い方をするんだ」とたしかに思える例(「成績が上がる」 「物価が上がる」等々)があるから、とお答えするほかないかもしれません。
野矢そう。ぼくもそう思う。ある表現がどうして成り立っているのかを説明することはするんだけれども、やってることはけっきょく 「後知恵」で、けっして一般原理や法則のようなものではない。「雨が上がる」は(雨が止む)という意味であって(雨が強くなる)という意味じゃないということを、概念メタファーは説明できないわけです。 自然科学だったら、観察された現象を説明することによって未知の新しい現象を予測できたりするのだけれども、概念メタファーの議論には、そういう予測能力はない。だけど、それはけっして悪いことではなくて、そういうものなんだと思うんですね。
後知恵/追認になってしまうことについて言ってる。やっぱりそういうものなんだな。タイムライン vs. トポグラフィも、認知の話になっている以上一定哲学的な要素を含まざるを得ないか。