The Reflective Practitioner
#単語帳
本。日本語訳を読む。
斜め読みして主張はわかったと思う。これ中盤の具体例ないと何もわからないやつだ。分厚い方借りてよかった。
学術的な知とは違う、専門家(professional)が業務の中で育む知の体系。
おそらく身体知とかmasteryとかで言われることはあったが、ナレッジワーカーの洞察力や論理といった形の知として言われることはなかったのだと思う
専門家は、個別具体的な状況に対し、うまい問題設定を行うことで、解を導き出す
「うまい問題設定」かどうかにはいくつかの判断基準があるが、解が出せるかによっても決まる。だから一旦設定をしてみて、解が出せそうかどうかによって、retroactiveにその問題設定が良かったかどうかがわかる。
反復的な実践(practice)により、過去の問題からのメタファが効くようになるため、良さそうな問題設定と良くなさそうな問題設定がわかる。
この問題設定とその解の探索の繰り返しは、「仮想空間」で行われる。実際の顧客との対話ではなく、プロトタイプツール、スケッチ、顧客以外の人との対話の中で進んでいく。これが自由に問題空間を探索するために重要。
この問題設定と解の探索の繰り返しのことを「省察 (reflection)」と呼んでいる。自分が行っている解探索のプロセスは筋が良いのか、良くないのだとしたらどんな問題設定のリフレーミングをしたら良くなるのかを考える。
これがデザインに近い(というか、著者は他の職種の実践もこの側面を切り出して「デザイン」と呼んでいる)こと、そしてResearch through Designの基盤になっていることはよくわかった。
エスノメソドロジー(参与観察、会話分析)的な方法を取っていた。
/icons/hr.icon
著者自身がコンサルタントで、実務での知とアカデミアでの知が結びつかないと感じるようになった
探究に取り組むうちに、大学は基本的な一般知を生産し、普及することに専念できる場ではないと確信するようになった。
1983年出版だから、当時と今ではだいぶ状況は違うよな。
「実践(practice)」は意味が両義的。practiceはピアノの反復練習であり、専門家の実践でもある。
専門家は数多くの事例(例えば、医者なら「はしかの事例」)に出会い、そこで多様なバリエーションを経験するので、自分の実践を練習することができる。
これは「なんでもできる」の罠 / 道場UIに使えそうな話。
以上の理由を考えると、行為の中の省察について研究を深めることがきわめて重要になる。〈厳密性か適切性か〉というジレンマが解決できるならば、それは私たちが実践の認識論を発展させることを通して実現される。つまり実践の認識論を発展させることにより、問題の解決は、省察的な探究というより広い文脈の中でおこなわれるようになり、行為の中の省察はそれ自体として厳密なものになり、実践の〈わざ〉は、不確実さと独自性という点において、科学者的な研究技法と結びつくようになる。
CSCWの起こりみたいなことなんだろうな。
こうした複雑さのために、デザイナーが講じた手立てから生じる結果は、いい場合も悪い場合もあるが、いずれにせよ意図したものとは違ってしまいがちである。そんなとき、デザイナーがこの状況の中で生まれた意図せざる変化を考慮に入れることもあるが、その場合には、新たな認識と理解が生まれ、そこから新たな手立てを講ずることになる。デザイナーはみずからの最初の状況認識にしたがって状況を方向づけ、それに状況が「返答」し、この状況からの返答に対してデザイナーが応答するのである。
デザインの中でのreflectionはここから来ているのか
建築デザインスタジオ(学科か?)でのプロフェッショナル教育
ユニットからの作業と全体像からの作業を同時に進めていき、それを循環させるのが原則だ。つまり行ったり来たり、行ったり来たりするわけだ。君はつっかえながら話してはいたが、これまで二、三度それをやってきた。グリッドに関連することという全体についての構想は何かあるのだが、グリッドの大きさについてはわかっていない。君はその構想を除外して、このことについていろいろやってきたわけだが、それは賢明な判断だと思う。そのまま続けてやっていけば、うまくいくだろう。
当たり前だけど、実際のデザインのプロセスでよくある場面がみごとに切り取られていて気持ちいい。確かにこのプロトタイプとスクラップのループは省察的なpracticeといえるかもしれないし、こういう仕方で研究をする(Research through Design)のも可能かもしれない。
臨床医であるふたりが、彼ら自身のやりとりについて相互的な省察の対象としないということは、会話の中での省察を旨とするプロフェッショナルであることを思うならば、驚くべきことである。インタビューの中で研修医はこの論点に気がつく。研修医はその発見に興奮しながら、指導者であるスーパーバイザーとの関係が、患者とその担当医である自分との関係と似ていること、とりわけ支配と協力の様式において重なっていることを明らかにする。患者と同じように、研修医は自分を援助するはずの人物との関係において、身動きのとれない状況に陥っていると感じ、もっと多くの援助を得ようとするのであるが、自分がそのようにすることそのものにも怒りを感じてしまう。しかしこうした決定的な問題は、ほかでもない、行為と思考の省察を焦点とするはずのこの臨床場面に関する検討の中で論点として浮かび上がってきていないのである。もしそのことが論点として検討されていたならば、スーパーバイザーが実際におこなってみせた解釈過程にかかわって、なぜそのような解釈が導き出されるのか、その意味にまで省察が深められ、スーパーバイザーは自分自身の行為の中の省察そのものに対する省察を始めることになったかもしれない。
おもろい、確かにこうなってしまうときってある。でもそれってなぜそう考えるのかをちゃんと問うことで解消されるのかな。省察のモードに誘うことができたら面白い話ができるかな。
どちらの例でも実践者は、標準的な解決策につながる手がかりを探す行動をとらない。むしろふたりとも、問題状況に固有の特徴を発見しようとし、徐々に発見していったものから、 そこでのかかわり方をデザインしている。
どちらの事例も、問題は前もって与えられているわけではない。むしろ学生(ペトラと研修医)が問題を提示し、その問題を教師(クイストとスーパーバイザー)が批評し、却下している。学生は行き詰まってしまい、どう先に進めばよいのかわからなくなる。教師は、学生が苦境に陥っているのを、問題の枠組みの作り方によるものだと考え、間接的にかかわっている問題状況に、新しい意味づけをおこなおうとする。状況は複雑ではっきりせず、問題を発見することの中に問題が存在しているのである。
このような類似点が、行為の中の省察の条件をつくりだしている。どちらの実践者も自分の事例を固有なものとして扱うために、一般的な理論や技術を応用することでは対処できないのである。実践者は学生とともにいる三十分ほどの間に、自分が見つけた状況の理解を組み立てなければならない。そして、その状況が問題であることを見つけだした以上、その状況の枠組みの転換 (reframe)をしなければならないのである。
完全にRtDだ。
いい問いの設定(リフレーミング)とは何かという議論になる。実践者は実践の中でいい問いを立てようとしているが、それは具体的にどんなものか。
解決できるか
解決して得られるものを好ましく思うか
理路整然とした状況を作るか
自分の基本的な価値観や理論と一致するか
探究がその後も続くか
とかが、問いを判断する基準になっているっぽいという話。
実践者は新しい問題に出会ったとき、前の問題のメタファとして捉える。
トーマス・クーン「未知なるものへの手本」
これおもしろ!!めっちゃわかる
予測や期待をせずに、何が起こるかを確かめるためだけの探査的な実験(exploratory experiment)
意図的にこうなってほしいと望み、何かしらの変化を生み出すことで何が起こるか観察・それが期待に沿っていたかを評価する「手立てを試す実験」(move-testing experiment)
チェスの選手がムーブを起こすと、結果的によくなるかもしれないし、悪くなるかもしれない。それによって手立ての良さが決まる
仮説を競わせて棄却するための管理された実験(controlled experiment / hypothesis testing)
科学者も探査的な実験をしているが、論文や実験結果からは除外されている
仮想世界
この省察は仮想世界で行われていて、現実のものではない。現実の建築をいじっているわけではないし現実のUIをいじっているわけではない
仮想世界であることの制約の少なさが実験に大事だという主張
よさの尾根の話からいくと、その仮想世界の環境が実践者をガイドしているとも言えそうだ
仮想世界であることで現実とはテンポが異なる実験をすることができる(ex. 精神科医:実際の患者と会話するのではなく、それがどういう意味だったのかじっくり考える)