行為する意識 エナクティヴィズム入門
遠心性コピー
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運動器が運動を起こしてから実際にそれが反映され感覚変化が起こるまでには時間がかかるため、先に脳内でどのような変化が起こりそうか予測している(遠心性コピー)
自分で自分はくすぐれない
スーザン・ブラックモアが、自分で自分をくすぐれるようにする装置を作った。手の運動が遅れてくすぐり箇所に伝わる装置。 われわれは純粋に「内」から見ているのでも「外」から見ているのでもなく、すでに「内」と「外」のズレとインタラクションを生きてい
る。主体のアクティヴな関与を無視して客観的にのみ語るのでもなく、主体による外界の「構成」 を強く取りすぎて知覚を「幻覚」と見なす極端に走るのでもなく、主体の経験と外界の間で起こっていることを素直に受けとるなら、エナクティヴ・アプローチが提案するような見方、すなわち主体と外界が相互に特定し合い、両者のはたらきが互いに循環し合うような見方が、より「常識」に近いものであることもわかってくる
眼球運動のトレモア(Tremor)について
眼に特殊なコンタクトレンズをつけたうえで、コンタクトレンズと連動して視覚像も動くようにすればよいのだ。これで何が起
こるかというと、視覚像はだんだんと消えていってしまう。つまり、網膜は光を受動的に受けて反応しているのではなくて、固視微動によって積極的に網膜を動かすことによって、網膜の色素細胞を活動させているのだった。まるで触覚において手を動かすことで物体の表面の材質を探り当てる (「アクティヴ・タッチ」と呼ばれる)のと同じことが、視覚においても起きていることがわかる。
第二章 自律性とはなにか
生物は「オープンエンド性」を持っていないといけない
ここで見られる状況は、アンディ・クラークが『messy mind』と呼んだものの一種と捉えることができる。 物理的なチップ(FPGA)に問題を与えて遺伝的アルゴリズムで進化させたところ、問題解決できるようになったチップは、チップの機能であるデジタルな論理演算だけでなく、そのチップを構成する電気回路のアナログ的な性質も活用していた。この意味でチップはオープンエンド性に対処できている。
ニューロンの活動について
ニューロンの出力は、人工ニューラルネットのニューロンとは異なる
じゅうぶん大きい入力があるとき、細胞膜を通してナトリウムイオン・カリウムイオンが流入・流出する
イオンが一つ流入・流出するごとにスパイクが生まれる(活動電位)
一定時間あたりのスパイクの数が神経活動の大きさR
各ニューロンの間の相互作用はかなり弱い
前のニューロンたちからすごく大きな入力があって初めて次のニューロンが発火する
アルファ波、シータ波:多数の神経細胞が同期して活動しているときのパターン
第三章 世界を経験するとはどういうことか
表象主義では、「外に=外界にすでにできあがっている」現実を、われわれが「脳の内部で」意識という形で再現・再構成するということを考えていた。これに対して、エナクティヴ・アプローチでは、自律的な活動があってはじめて一つの世界がその主体に対して「つくられる」のであり、しかも主体はその世界の内部に位置づけられてそのなかで生きている、と考える。
なるほど。確かに、さっきのサッカードによって初めて像を認識できるようになる、とかの話を踏まえると、自律的な活動がなければその主体にとっての世界を作ることができないという話は腹落ちする。
しかもそれを、主体が構築しているからといって「幻覚」とまで言うのは確かにやりすぎだな。ベストエフォートで構築しようとしているのだ。
この 「見えない外」と関わっている実感をわれわれはもつが、この「外」との境界を見ることは原理上できない。それはいわば、「境界のない外」である。 このような「境界のない外」との関係が、主体の内的な生を特徴づけている。
図3-1 「境界のない外」は観察できない田口度 CC BY 4.0.
このような「境界のない外」との関係をどのように考えられるだろうか。 ここでは、われわれが何かを客観的に考えるときに一番得意とするような、 「境界線を引く」という操作が使えない。境界線を引いて、「こちらは内、こちらは外」とし、それらの間の関係を考える、という手順が使えない。これは「観察」(observation)というやり方だ。つまりわれわれはここで、「観察」 という馴染みのやり方を使えないのである(図3-1)。
これは、われわれが「境界のない外」との間にもつ関係が、「観察」という関係ではないということを意味している。「境界のない外」との関係は、「観察」ではなく、むしろ「行為」(action)的関係ではないのか。われわれはいわば、「行為」によって「見えない境界」を乗り越えているのではないか。
私は、私の主観的世界の外を「観察」することはできない。(できたらそれは主観的世界の「内」でああごしかし、そのような「外」へと行為的に関わることはできる。行為することによって、われわれは自分の既知の世界から出て、新しいものに出会うことができる。
観察することの代わりに行為をしている……?
自転車の乗り方をいくら言葉で説明されても、自転車に乗れるようにはなれそうもない。じっさいに自転車に乗って練習を繰り返した結果、いつかある時点で、「自転車に乗れる」という状態がやってくる。このときわれわれは、ある境界を、「見る」ことなく乗り越えている。それは、「やってみる」ことによってしか乗り越えられない境界である。「行為的」という言葉で言おうとしているのは、こういったような事態である。
そういうことあるよな。観察による理解ではなく、体得?どうなってるか説明できないけどなんかできる、みたいな
オートポイエティックなシステムは、自らの境界を創り出すことによって、はじめてシステムとして存在しうる。だから、システムに関して境界が語られうるとしても、それはシステム自身の作動の限界であり、その内と外とを同時に見渡すことは、システム自身にとってはありえないのである。
確かに
生命システムは開きっぱなしであるわけにはいかない。開きっぱなしでは生命体はすぐに環境と同化してその中に融けてし
いわばらである。生命システムは何らかの意味で閉じていなければならない。だが、現象学的にできる生きたシステム自身の視点から見るなら、自分が閉じている様子を「外から」観察することはできない。さきほどから述べているように、経験するものにとって自分の経験や意識の境界は見えない。そのようなものにとって、「それでも自分の経験は閉じている」ということを主観的に経験できるとすれば、それは「不安定さ」や自分の経験が「壊れること」の経験からではないか。自分自身のあり方や、自分にとって(のみはじめて)存在する世界のあり方は、絶えず変動し、しばしば予期しえない仕方で変化する。自分が「世界はこうあるだろう、こうであるはずだ」と思っていた予測は、しばしば裏切られ崩壊する。だが、それによってこそわれわれは「外」なる世界について本当の意味で「知る」のだとも言える。
乱されることで、自分の外の世界が存在することを実感する