歴史学はこう考える
#単語帳
松沢裕作による本。
史料について
さて、前にもふれたように、法廷で記録を証拠として持ち出して争う場面と、歴史学者が記録を史料として用いる場面は、現在の社会のなかで、記録が何かを言うための根拠として用いられる二つの例です。そして、当初古文書学が裁判での真偽鑑定を目的として生まれたこと、一方、ランクが、自分の仕事は「過去を裁く」ことではない、と表現したことからわかるように、ランケによる歴史学の立ち上げは、裁判のように、何かの利害のために相争う目的で記録を使うという行為と、ただ過去の出来事を述べるという目的のために記録を使うという行為を分けるものでした。
そして、ランケ以降も、こうした二つの目的の分離が常に守られてきたわけではないこともすでに述べました。分けた方がいいのか分けない方がいいのか、という点についても正直私にはわかりません。
先ほど述べたように、世の中の歴史叙述をすべて歴史学的なものにしてしまえばみな幸せになるかどうかはわかりませんが、反対に、世の中の歴史叙述がすべて非歴史学的なものになると混乱が増すのは確かではないでしょうか。
そして、一体どのような主題が、歴史家以外の人びとの関心の対象となるのかは、事前に予測がつきません。「世の中の何かに役立てるために史料を読んでいるわけではない」 歴史家でも、状況が変われば急に注目を浴びる(浴びてしまう)ことはあるのです。
そう考えると、(真実に向き合う派の人は)とことんそういうつもりがあるんだな。どうやっても解釈が入ってしまうから仕方ない、では済まされない。科学者もそうだと思うし。工学者はどうなんだろうか。