日記(インポート)
日記
2020/04/08
デジタル文具(ColorNote)を新調した。エンターテイメントではなく履歴と思考の場として使いたい。
2020/05/07
言語化は危ないので、なるべくたくさんの事例を集めていつも更新し続けたい。
考えること一時置き場
「出し抜く」という言葉が、ぼくの最近のもやもやを表現してくれてる気がする。
あと、よいサービスとは、新しいメンタルモデルを提供するもののことではないかという仮説。ユースケースとかペルソナとか、そういうものからユニバーサルなインターフェイスが生まれなさそうだとはずっと思っているんだけど。
2020/06/19
人生の目的は、根本的には存在しない。生殖という意味ではあるけど、それは野蛮だということにしちゃったし、生殖が終わったらどうするのかとかもある。少なくとも生殖をしていない間は、何をすればいいのかわからない。
そんな中、当面の間の目的を与えられると、盲目的にそれに向かって走ることができるのだ。
戦争の話です。
共通の敵を作ると団結力が高まる、みたいな話もこれに帰着する。人間は常に目的を探しているらしい。
企業の目的は資本を集めることで、企業のビジョンはより具体的に、どう資本を集めることを目的とする、と明文化したものである。
サークルの目的は各サークルで決めるわけだが、デザインサークルとかBizJapanの説明をしたあとに「それって何するサークルなの?」と聞かれがちなのは、みんなサークルに何らかの目的を見出したいからである。
目的を達成すると気持ちがいい。文字通り達成感が得られる。
サークルでみんなが気持ちよくなるためには、継続的に目的を生み出し、達成感を得てもらうのが必要だ。
ビジョンを描ける人がリーダーになるというのは、ビジョンそのものに価値があるというより、ビジョンを達成することを目的にできる、という点で目的を生み出しているから。
そこに、それまで明確な目的がなかった人たち(偶然まったく同じ目的を持ってる場合もあるし、その人の人生の目的がついでに達成できそうと思ってる場合もある)が集まってくる。
そう考えると、リーダーは自分の目的を一番達成しやすい。なぜなら他の人は全員リーダーの目的達成に貢献するから。活動を通して他の人の目的が達成されるかはわからないが、リーダーの目的はうまくやれば必ず達成される。そういう意味ではリーダーは一番得である。
ただ、「自分の」目的を達成することに強い意義を感じていない人もいて、そういう人はプロジェクトから得られる達成感が一番の報酬なのかもしれない。目的を自分で設定するという心理的プレッシャーなしに達成感を享受できるから、合理的ともいえる。
2020/07/24
落語を初めて見た。感想をいくつか。
・意識されないインタラクション:漫才のときと落語のときでマイクの高さが違う。気づかないうちに自動で伸び縮みする。
・紙切り、すご!職人。演芸の世界にどうやって認められたのか気になる。
・客と演者の相互作用をめちゃくちゃ感じた。客からのフィードバックで演者の振る舞いが変わるという体験は久々。というか、そういうインターフェイス的な体験というより、客の人数も少なくて、一緒に場を作っている感覚だったな。自分が笑うか笑わないかが、演者や他の客にも影響を与えている感覚。これはテレビとかでは出ないなあ。
・難しい単語は説明が入ったりと昨今の人に受け入れやすい工夫はあったが、それ以上に、物語の要となるセリフは大きい声でゆっくり聞き取りやすく話し、雰囲気作りのセリフは流れを損なわないように細かい部分は聞き取りづらくてもいいからそれっぽく話す、というのが徹底されていたので、初見でも大まかな流れを理解できた。
・今日やっていたやかんの話(「やかん」というクラシックがあって、それをフォーマットだけは保存しつつ原型がないくらいに改変したもの)、リミックスみたいな感じでよかった。普通に面白いし、元ネタを知ってたらもっと楽しめるんだろうなと思った。
・文脈というか聴衆の前提知識に応じたネタを選ぶというのは大事だなと改めて思った。今回だったら、漫才の人が聴衆におじさんおばさんが多いと踏んで同世代に刺さるあるあるを織り交ぜたり、落語で別の噺の一部を取り入れたり。先に挙げたリミックスはまさに文脈の面白さがあると思う。
・「くすぐり」:細かい小ネタのこと。オリジナルのくすぐりを入れる人も結構いる。
・(ぶんちゃん)歌舞伎と同じでかみてしもてでえらいひととそうでない人が分かれている、歌舞伎のモノマネから落語が始まった→文脈活用による情報整理、UIぽい!
2020/07/25
Eテレで盲目の女の子が蚕を手に乗せて「動きがかわいい」って言ってて、そうだよなあかわいいって視覚の専売特許じゃないよなあバカだったなあ自分と思った
2020/08/25
普段使わない感情はどんどん鈍っていく気がする。他人を見下す/バカにすることによる快感というものを久しく使ってないから、いじめっ子の気持ちがわからなかった。動機バトルの問題で共感力に勝らないというのもあるけど、そもそもバカにすると楽しいというのを忘れかけていたな。
2021/07/24
オリンピックの開会式が、本当に色々な倫理的問題を詰め合わせにしたみたいで、それに自分の国で立ち会えて、しかも自分も一部加担していたという経験は人生において非常に貴重だった。その意味では本当に価値のある式だったと思う。
まず圧倒的に非圧倒的だった。コンセプトが全然見えず、1つずつのちょっとだけ面白い広告代理店的ネタをつなぎ合わせただけだった(というのはTwitterの受け売りだけど)。直前で何度もトップをすげ替えていたのだから当たり前である。各セクションの人は、自分にできることを本当に精一杯やったんだと思う。ビジョンとブランディングの重要性が身にしみてわかった。
技術的に面白いコンテンツもまったくなかった。唯一すごかったドローンはアメリカ企業インテルの技術だった。5年前のライゾマの演出を見たときはシンプルに驚けた。日本にはもっとすごいコンテンツがたくさんあるのにという思いと、そんなのは幻想でこれが今の日本なんだという思いが交錯する。
やるべきでないという意思決定、どんな開会式にするのかという意思決定、炎上してもビジョンを持った人に任せるのだという意思決定を、誰も責任を持ってできないシステムと文化であることが全世界に配信された。それを我々市民が、政治家は選挙を通じて、広告代理店は消費活動を通じて、完全に容認してしまっていることも配信された。
それどころか、市民はTwitterによる直接民主制で、間接的にではなくダイレクトに混乱を増やしている。その一部にぼくも加担してしまったのだ。
コーネリアスが、障害者いじめをしていたとして開会式音楽担当を解任されたが、原文インタビュー記事を見るとかなり印象が変わる。ぼくすら、もし本当にこういうことをしていたなら音楽担当になるのは不適切ではないかというツイートをしてしまった。一人ひとりのこういった「裁きたがり」の習性が、今回の開会式を招いた。
思えば、たった1つのインタビュー記事の、さらに恣意的な取り上げ方のブログから、小山田圭吾とそのクラスメイトの関係を正確に読み取るなんてことがどうしてできるだろうか。その判断は相当訓練された人にしかできないし、その判断に責任を持つと覚悟を決めた人にしかする権利はない。だから私刑はダメだとあれほど言われているのだ。間違ってもなんの責任も負わない、訓練もされていないのに声だけが大きい裁判官ほど、社会に悪影響を与えるものはない。
結局のところ、頼まれて明らかに自分に権利がある判断については怠らずに行使(選挙)し、それ以外の横やりはどれだけ自分の判断に自信があろうと入れてはいけないのではないかと思う。自分の責任が伴う小規模コミュニティならまだしも、インターネット上で(選挙に行こう以外の)政治に関する意見を表明するのは害が大きすぎる。
さらに言うなら、人々は自分の立場を先に決めてからニュースに反応して意見を言っているのではないかと思う。実際に小山田圭吾がいじめを行っていたかはほぼどうでもよく、小山田圭吾を批判することで「いじめに反対する自分」(もしくは、芸術と個人を切り離して考えられる自分)になれるから意見を表明しているだけなのではないか。もちろん「いじめに反対する自分」になることは、いじめをなくしたいという意思を広めるという意味では意義があると思うけど、その動機で判断が縛られていることで、結果として行っている全世界に向けた裁きの行為はデタラメ以外の何物でもなくなる。ニュースを利用して自分の印象をコントロールし、正しくないかもしれない判断が残るのは野となれ山となれというのは不真面目極まりない態度に思える。
湧き上がる感情がコントロールできないなら、せめて他人に検索されない(=誰かのエコーチャンバーに貢献しない)閉じた場所で意見を表明せねばならない。
自分が今回の開会式に落ち込んでいるのは、これだけコロナで演出の可能性が狭まり、これだけ民衆が引っかき回したあとでさえ、開会式を見れば感動して丸く収まるんだろうなという期待を、心のどこかでしていたからだということに気づいた。オリンピックをすること自体に反対していたはずなのに、開会式に希望を抱いていた。
GOの三浦氏のツイート
「始まるまではクソみたいなことだらけだが、始まっちまえばそれは紛れもなくアスリートのものだ。世界最高の才能をもった若者たちが人生を賭けて競い合う。彼ら彼女らの躍動を心から楽しもう。声を涸らして応援しよう。オリンピックのあり方に疑問を持つこととアスリートを応援することは矛盾しないぜ。」
こういう、クライアントから来たものと矛盾しないように自分の気持ちを作り上げて、問題を見なかったことにする広告代理店根性が、極端に主語を広げて言えば我々みんなに染み付いていることにも気付かされた。無意識にそのルートに乗っかろうとしていたけど、開会式がぼくを正気に戻してくれた。今は開会式に抱いていた希望が広告代理店根性だということに気づいているし、それに気づかせてくれた開会式に感謝している。