一冊でわかる意識
2025/10/18
読み終わった。この本では意識とはどういうものとして扱われているか?
意識とは我々が経験している主観的な体験全体のこと
意識を持っている主体が「私」であり、「私」はいろいろな経験をし、思考をし、その結果責任を持って行動を起こせる
このヒトの肉体を司る意識的な「私」が常に一人いて、そいつが一直線に、川の流れのように経験をしている(Stream of Consciousness)ように思える。そして意識的なことと無意識的なことがあり、常に感覚入力全体の中から限られた部分に意識を向けて、無意識的なことはすべて脳の意識ではない部分にまかせているように思える。 しかし、実験をしてみるとその仮説に合わないことがいろいろ出てくる。
意識を向けていないと思っていたことも、後から意外と思い出せる。
手を動かす際には、意識として「今動かし始めた」と思うより先に、運動指令が出ている。
意志について、自分がやったと思っていないのに体が動いていたり、自分がやったことではないのに自分がやったと思い込んだりすることがある。
なので、著者は意識は「常に存在する、一直線の川の流れのようなものではない」と考えている。
通常状態では、脳の各部位は勝手に完全に並列的に処理を行っており、意識は「今何を意識していたのか」と問われたとき初めて、その各部位の処理をまとめたナラティブとして現れる。
後から適当なタイミングでまとめているけど、(世界五分前仮説的な感じで)当人にとっては完全に連続した体験に思える。
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現象的意識:「〇〇であるとはどのようなことか、その主観的体験を経験するもの」
アクセス意識:「思考したり行為や発話を行ったりするのに利用できる意識」
デカルト的二元論、「デカルト劇場」:意識は劇場の中で上映される感覚刺激を眺める一つの存在であるという説。(ダニエル・デネット)
脳は徹底的に分散型のシステムであり、どこか一箇所にすべての感覚刺激が統合されることはない
実際には劇場もショーも観客も存在しない脳のなかで、経験の流れを持つ「意識的な自己」がどのようにして生じるのかが謎
人間の脳には、いかなる中心もない。脳のさまざまな部位が、 それぞれ視覚や聴覚、発話、身体イメージ、運動のコントロール、将来の計画立案などの働きに携わっている。これらの部位は互いに連携し合っているが、この連携はすべての情報が一つの中央処理装置に送られることによって成り立っているのではなく、各部位が脳全体にわたって互いに縦横無尽に結合されることによって成り立っているのである。
意識の統一性の条件
どの時点でも、意識内容とそうでないものをはっきりと区別できるように思われる
意識には連続性があるように思われる
意識内容はすべて同一の「私」によって経験される
これは本当なのか?
半側空間無視、前向性健忘症の患者の話
彼らはある意味では明らかに意識を持っているように思えるが、ほかの意味では我々の経験とは大きく異なる
健忘症患者は日記に何度も「私はいま、はじめて気がついた」と書く。夢から目覚めるあの感覚を何度も繰り返し絶え間なく体験している。これは意識の連続性について考える切っ掛けとなる。
形状失認の患者
ものの輪郭を目で見て認識することができない
でも物体に手を伸ばしてつかむことはできる
実験
細長い隙間を提示され、それと同じ向きに線を引けと言われるとできなかった
でもカードを渡されると、すぐにそれを隙間の向きに合わせて入れることができた
視覚には腹側経路(遅くて正確な知覚を組み立てられる)と、背側経路(速くて運動制御ができる)がある。
ボールを取ったり障害物を避けたりは、それを認識するよりかなり前に起こっている
先ほどの症例は、視覚と意識の乖離ではなく、行為と知覚の乖離である
盲視という現象。脳の一部に損傷を受けた患者が、ある視覚領域を「見えない」と言いながら、そこにあるものを当てずっぽうで当てられてしまう。
→単一の視覚経験という考え方は根本的に間違っている。
いろんな意識理論
量子で説明するもの
高階思考(HOT)があるかによって意識的か無意識的かが変わるとする説
どうやってスポットライトを当てているのかは謎のまま
意識の劇場はないという理論
一瞬まえには私は何を意識していたのか」という問いはとくに興味深い。そして私は多くの時間をその考察に費やしてきた。ほんとうに意識の流れというものが存在するなら、私はあれではなくてこれを意識していたという、一つの確定した答えがあるはずである。しかし、真剣に調べ始めるやいなや、あなたは自分を振り返って、いくつかの異なる出来事の流れのなかから、そのいずれをも取り上げることができるのがわかる。たとえば、乗り物の騒音や呼吸の感じ、草の見え方など、どれでも自分が意識していたものとして取り上げることができる。
この理論によると、意識の流れというものはなく、脳は常に世界を多重並列的に処理している。
そしてそれに探りを入れられたとき(今何を意識しているかと聞かれるときなど)にはじめて、自分が何を意識しているかを決定し、それを告げる。
これは、意識の神経相関物の探求にとって重要な意味を持つ。たとえば、クリックは「眼前に見える世界の生き生きとした描像」の相関物を見いだしたいと言い、ダマシオは「脳のなかの映画」 の相関物を見いだしたいと言う。しかし、視覚世界が壮大な錯覚なら、彼らは自分たちが探しているものをけっして見いだせないだろう。なぜなら、脳のなかの映画も生き生きとした描像も、脳の
なかには存在しないからである。どちらも錯覚の一部なのである。
意識と意志について:リベットの実験
意識は手首の曲げを開始することはできないが、それを阻止するように作用することはできる、と彼は述べた。 言い換えると、私たちは自由意志を有していないとしても、「自由な拒否権」は持ち合わせているのである。
意識が何かを決定するのは、行為の準備が開始された後である。でも拒否権はある。
でもこれは、「意識が決定した時点」を想定している点で正しくないという批判もある。前述の通り、意識が何かを思った「時点」は存在しないという説があるから。
ウィリアム・グレイ・ウォルターの実験
脳の手術で患者の運動皮質に電極を埋め込んだ
スライド映写機を操作するよう求めた
患者の脳から出力を取ってそれを増幅し、その信号でスライドを変えるようにした
患者は「ボタンを押そうと思うだけでひとりでにスライドが変わる」と報告した
意志の感覚がない
冷蔵庫の照明理論
こうして壮大な錯覚が生じる。私たち人間は、話したり考えたりする賢い生き物であり、「私はいま意識があるか」と自分に問うことができる。そして得られる答えはつねに「はい」であるから、 私たちは、自分にはいつも意識があるという誤った結論に飛びついてしまう。あとはすべてここから生じてくる。私たちは、目覚めているときはいつも、何かを意識しているにちがいないと考える。 なぜなら、間うたときにはいつも、たしかにそうであったからである。そこで私たちは、この結論に合う比喩を作り出す。つまり、劇場、スポットライト、意識の流れといったものだ。しかし、私たちは間違っている。完全に間違っているのだ。
真実はこうである。問いを問うていないときには、意識の内容もないし、それを経験している者もいない。その代わり脳が働き続け、デネットの多重草稿理論にあるように、いろいろなことを同時に並行して行っている。そのなかのどれも、意識のなかに入ってもいなければ、その外に出てもいない。
これ相当opinionatedな本っぽいな。本当にこれがコンセンサスなの?
この考え方によれば、人間と同じように意識を持つことができるのは、人間と同じくらい錯覚を持つことができる生き物のみである。これはおそらく、人間だけが意識を持つか、あるいはほぼそうだろうということを意味する。
読書案内
本書で扱った話題はすべて、S.J. Blackmore, Consciousness: An Introduction (London: Hodder & Stoughton; New York: Oxford University Press, 2003)においてさらに詳しく論じられており、課題、実例、広範な参考文献が付きれている。
哲学的アプローチでは、D.C. Dennett, Consciousness Explained (Boston, MA, and London: Little, Brown and Co., 1991) [D.C. デネット 「解明される意識」山口泰司訳,青土社、1998年〕が深くて魅力的だ。これに対立する見解としては、D. Chalmers, The Conscious Mind (Oxford: Oxford University Press, 1996) D. J.チャーマーズ 「意識する心――脳と精神の根本理論を求めて」林一訳、白揚社、2001年や、J. Searle, The Mystery of Conscious-ness (London and New York: Granta Books, 1998)がある。 心理学と脳神経科学では、F. Crick. The Astonishing Hypothesis (New York: Scribner's, 1994)(強い還元主義的見解)や,G. M. Edelman and G. Tononi, Consciousness: How Matter Becomes Imagination (London: Penguin, 2000)を読んでほしい。A. Zeman, Consciousness: A User's Guide (New Haven, CT Yale University Press, 2002)は良い概論である。
ウィリアム・ジェームズの2巻本の古典は、The Principles of Psychology (London: MacMillan, 1890)〔抄訳, W. ジェームズ 「心理学」上、下,今田寛訳,岩波文庫,1992/93年〕である。ちょっと楽しく読める本としては、 D. R. Hofstadter and D. C. Dennett (eds.), The Mind's 1: Fantasies and Reflec tions on Self and Soul (London: Penguin, 1981) (D.R. ホフスタッター/D.C デネット編「マインズ・アイ――コンピュータ時代の「心」と「私」」 上、下(新装版),坂本百大監訳、TBS ブリタニカ、1992年〕を読んでほしい。