「なんでもできる」の罠 / 道場UI
カメラの道場UIポイント
わざと手ブレ補正がないカメラを買うことで、シャッタースピードと絞りに気を配る感覚を育てられる
わざと画面がない/ファインダーの画質が悪いカメラを買うことで、画面ではなく現場を見て撮れるようになれる
わざと連写できないカメラを買うことで、一瞬をじっくり待って撮れるようになり写真が雑にならない
デジタルではなくフィルムカメラを買うことで、一枚一枚にお金がかかるようになり構図が丁寧になる
カメラマンにはどんな撮影体験をしたい + どんな撮影者になりたいが先にあって、そのために自分を律する制約を考えてるっぽい
コンピュータがメタメディアであるがゆえに、道場的に不便さを強いることができないというのは、現代の結構本質的な課題かも
「なんでもできる」せいで意志力が問われてる
「なんでもできる」「何をしてもいい」ことの無責任さは最近感じる機会が多い
VRもそうだと思うし、なりたい自分になる!的な言説も
道場はそういった自由概念全体へのアンチテーゼでもあるのか
クリエイティビティとの関係
Adobeに感じている欺瞞。制約がむしろクリエイティビティを育む。
一時的な制約は新しい発想につながる。
https://pbs.twimg.com/media/HH2s9wia4AAkj5Z.jpg
一方通時的な制約はそのメンタルモデルへの熟達を生む(カメラの道場UIはそれ)。
人生・ウェルビーイング
中條くん
昨日、千葉さんとも話してました。コンピュータやスマートフォンは、プラットフォームとしてなんでもできるからこそ、特定のデベロッパーが好き勝手なことをしたら、それがプラットフォーム自体に悪影響を及ぼしている。ある意味で共有地の悲劇がみんなの手元の中で起きている。我々は、けいたせんせいのexUIに対して、明確に反対の立場を取らないといけないのだと思います。
メタメディアを共有地として放牧したら、中毒性の高いコンテンツしか生き残らなかったという話。
カメラの道場UIは、直接的にはクリエイティビティにしか関係ないように思えるけど、「そういう写真を撮っている自分」を愛せるかとか、写真を撮っていない間にもそういうものの見方をできるようになるかとか(ex. 撮る際のレンズの焦点距離によって景色の見え方が違う)、間接的に人生全体に関わっている。だから存在論的デザイン / Ontological Design。 私たちの製品は、気軽に質の高い思い出を作ることを目的に設計されています。アップデートを検討する際、私たちが「搭載しない機能」は搭載している機能と同じかそれ以上に重要です。
強制力との関係
カメラという道具がそれを強いてくるのもいい、一度その道に入門したら流派替えに数十万かかるし
カメラの評価は単純な性能じゃなく、そのカメラが道場として提供する一連の制約が統一感ある世界観に基づいているか・それでなりたい自分になれるかで決まってそうだ
中條くん
ソフトでいいはずなのに、バカ高い専用ハードを作る例。多分、寺尾さんはこの話をしたらとても話が合う気がする。
道場ではなぜ不合理でキツい矯正を乗り越えられるのか?
ソーシャルだから。師匠に見られている、門下生に見られているという感覚が、キツい矯正を乗り越える力になる。
より高次の自己実現につながると信じられるから
老獪の先生が、その道を極めた結果かっこよく成熟している = ロールモデルがある
歴史の蓄積があり、「この矯正はキツいものの効果的ではあるだろう」と信じられる
入門するという行為に事前のコミットメントがあるから
月謝はどうなるんだ、道具買っちゃったぞ、など
類似概念
不便益
ただの不便益と道場はなんか違う気がする。「体系」であることが大事なのかな。
存在論的デザイン
Claudeいいこと言ってるね
西洋(特に近代)は「主体性」を保持したまま自由を構築する(カントの自律する理性的主体、フランクファートの第二階意志を持つ自我)。
東洋(特に禅・道家)は「主体性そのものを脱する」ことに最高の自由を見る(庖丁の神=身体、沢庵の不動智、道元の身心脱落、柳宗悦の無心の職人、西田の絶対無)。
道場UIはこの両極を架橋する余地がある:カメラを選ぶ=主体的決定、しかしカメラに使われ続けるなかで主体性が薄れる=東洋的没入。