知的体力とは何か
R-style 11/20 更新
美智子皇后「私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならない」
ウメハラ「変化は義務ではない。むしろ変化を増すこの現代社会において、コースアウトしないためのひとつの方法」(大意
コースアウトってなんだ。停滞することがそうなのか
停滞ってなんだ
停滞が、膿むことはわかる。これは、気持ち悪いし、つらい
割り切れねぇ、割り切れねぇこの複雑な世界
複雑さを愛せるだろうか
あるひとつの方向に「いくぜ」と決定すること。ある方向へ行くことが、何かの可能性がありそうだということが、「わかる」/「わかった」→じゃあ、「いくぜ」
行く。GO。going on。そしたら、いろんなことがわかってくる
……っていうか、「行く」ってことは、ほとんど「わかっていく」ということと同じなのではないか?というすごい発想がいまおれのなかを!
停滞ってなんだ
それは、「行かない」ことだ。そして永久に「わからない、こんなダメなおれ(の慰撫)」のままでいることだろう
リスキー
わかっちゃいるさ、そういう「いくぜ」を振り絞ることに、体力がいるっていうこと。おそらく、この「いくぜ」を振り絞る
……というか、「いくぜ!」を使えるだけのMP(マジックポイント)が、「知的体力」なのだろうか?
MPはどうやったら回復できる?
エーテルは読書なのか。読書はエーテルなのか(FF脳
「いくぜ!」とは、ポジティヴな生への意志である
ニーチェ的な力への意志(will to power)とどこまでカブるのか
「ルサンチマン」の意味。膿む生活の人間、それこそ停滞である
「意識高い系のことばが陳腐なのは、彼らが何も作っていないからだ。”気づきをありがとう”とかぬかすが、その気付きでもって、彼は何を作ったというのだろう。何も見せてない。」
じゃあどういうのだったら信じられる?
「ところでこんなの作りましたけど(ひょい、と作品を見せる)」だ。これでしかない。
おそらく「わかった」とは、ある程度まで「成果物をつくったよ」と地続きなのだろう
作品(アート)だけではない。「人生は、作品だ」という考え方もある(by漢弾地
この物理的世界において、「ブツ」でしか、おれたち人類は、「わかった」の証を見れない
証だてなければいけないのか
信じてもらうためには、そりゃそうだろう。そして、それは承認欲求なんかじゃねえ。おれは、おれ自身を肯定したいんだ。だから己に対して証をたてる
でも、証をたてないからってダメ人間なおれ……ということではない。むしろ、そう考えることこそが「本当のだめ」だ。
→自分を肯定するためのツールのひとつ、として「つくる」「いくぜ!」「変化」を使ってみる、くらいの思いでいこうや
自分を肯定するのって、そういうツール以外になんかあるんかいな……他者よりの肯定はハナからオミットするとしたら
和嶋慎治(人間椅子)「君は喜びを手にしているんだから」
「わかる」は、自分の心の内からでないと意味がない。というか、自分の心の内から出たものこそが「わかる」なのである
繰り返すが、「成果物をつくらないとダメ」な思考がすでにダメなのだ
それよりは、「わかる/わかっていく/いくぜ」の心持ちを、絶えず手入れしていくことなんだろうな、と思う。そんで、成果物をちょこっと作れたら、余計に「やったぜ」と手入れしていくんだろう
当然、「このくらいしか作れなかった……」という意識こそが、ダメすぎる敵である。
(知的)体力とは、己の肯定のためにある
(知的)脂肪とは、己のこれまでの日常の証拠である
(知的)体力とは、他者を攻撃するためにあるのではない
(知的)脂肪とは、結局のところ緩慢な自己破壊である
(知的)体力とは、手入れである
(知的)脂肪とは、手入れしてけぇへんかった証拠である
(知的)体力とは、1日サボったら3日分ヤバくなりがちなものである
(知的)脂肪とは、3日分のヤバさの圧縮累積赤字である
(知的)体力とは、エネルギーに使えるものである
(知的)脂肪とは、エネルギーに使え……るわけねぇだろ
(知的)体力とは、手を動かすことである
(知的)脂肪とは、頭を動かすだけで何も動かさんかったハラのたるみである
(知的)体力とは、読書を燃料にして「いくぜ!」
(知的)脂肪とは、読書ばっかりして情報の肥満である
(知的)体力とは、ポジでもネガでもない。だからポジってるからといって、自慢しちゃいけない
(知的)脂肪とは、ルサンチマンである
(知的)体力とは、善でもない(?)。正確には「善へと向かう一歩のしるし」である
(知的)肥満とは、人間の悪の刻印である
(知的)体力が、いずれやさしさになることを。
(知的)肥満で知った闇の経験が、いずれやさしさになることを。
知でやさしさをつくっていこう。