メモや日記を読み返すことが可能ならば
この3年ばかり、毎日メモをとるばかりで、pomeraを打鍵するばかりで、evernoteにタスクリストをぶっこむばかりで、それらを「死んだメモの倉庫」にしていた。とくに日記はひどい。主にアナログノートに万年筆で、思考の奔流をガガガと書き。並行してPomeraで思考の奔流をガガガとかき。それらを放置していた。完全に。読み返しもしない。
例外として、何かタスクを忘れそうになったら、日記を1週間だけ読み返す
しかし、発想は拾わない。
これはヤバみ!
そんなわけで、村上春樹の新刊を買うのもやめて、自分の文章(メモ)を読み返すことにした。
そもそもが放置しているのだから、まぁ整理なんて無いも同然たるはこのことである。
とりあえず、アナログノート、カード、ペラ紙を、一枚いちまい見ては、「これもういらんな」というものはクシャとしてゴミ箱ポイingして、「これは悪くないな」という文が書かれていたら、パンチ穴空けるマシンthe手動でバチコン・バチコンとパンチ穴を空けて、でかいフォルダにとりあえずファイルする。
整理かー? 整理できてるかー? これって単にとりあえず製本ちっくに保存してるだけではないのかー?
最低限、一応何が入っているか、デカいトピックだけはindexな字を書いている。表紙に。
フォルダを一読して改めて思ったこと
めちゃくちゃ面白い、ってほどではない
「なんらかの理由で、こっちの方面のことは全然伸びなかったな」っていうスキルツリーを改めて発見する
その理由は、3年を経た今なら、わかってしまう。
時間は師か
自分は何かしら忘却が怖かったのかもしれない
多少「作品」を意識したものは、多少面白かった
つまり、「他者」を意識した、ちょっと気取ったテキスト、メモが面白かった
つまり、「3年後の自分」は他者でありますから
それから1週間くらいして、「音楽」についてどう考えていたんだっけな、という視点で、なんとなくフォルダを再読して思ったこと
今度は「ただの記述、メモ」がおもろい。
その時の「思考、興味の歴史」が轍(わだち)となって浮き上がってくる
これが世に言う自分史かッッ
なるほど、メモは「読み方ひとつ」なんだなぁ、ということを知る
なんとなく見えてきた。
メモは残しておいて損はないのかもしれないが、
「他人(未来の自分)が面白いような書き方をしているか」
「他人(〃)が未来でも把握できる正確さで書いているかどうか」
「当時の自分は面白い奴だったのか」
「今の自分は面白いものの見方を出来ているのか」
っていうのがありますね。
ほら、道路の標識のようなピクトグラムでも、考現学みたいに、「それを面白がる態度ひとつあれば」なんだって宝の山に見える、ってやつです。むしろありがたがるべきなのは、「メモをとることを絶対にしてる自分」よりも、「過去のメモを確実に検索できる自分」よりも、……「なんとか残っていたメモを、面白がれる今の自分」かどうか、っていうのが一番重要なんじゃないか、って思うのです
まあそれだったら何だって面白がれるのではないか?自分のメモでなくても、って話ではありますが
しかし、「自分の情報」を読もう、面白がろう、としたら、自分のメモが一番だっていう当たり前の話ではあります
多分、ここにおいても、自己啓発とか、自分探しとか、あんまり自分じぶんしないほうがいいんだろうな、って思います。
例えば、古いVHSを「あーなつかしー」って当時なんだったかなー、って近過去トリップしてみるときって、ごくまれにあったりするじゃないですか。そういう「近過去トリップして見たアレ」の中に、「当時自分はこんなのに執心していたのか」って見出して「ほぅ」と思ってしまう、その「ほぅ」こそが自分の本質だ、っていう気がすごいしますし。あるいは当時見ていた番組のディテール観察とか、番組インデックスとか。CMの風合いだとか。そういうのから引き出された「ほぅ」から、panpanya先生の漫画や、vaporwaveみたいな表現は産まれてきたんですから。絶対無駄じゃない。無駄にする自分がいるのみだ、っていう話ですし、そういう意味だったら、今まさに自分たちは、今は気付けない宝の山に囲まれてるんだってばーっ! 自分(わたし)、絶対、数年たったらこのscrapboxやこのR-Style抜き書き、絶対慈しんで読むぞ。そこからR-styleを、ドメイン失効していなければ、遡って読むぞ。それは確実だぞ。そうだよ、今はいろんなものに囲まれていて、「当たり前」なんて思うからいけない。世の中には「当たり前」と思うフヌケた意識ばかりはびこっているからいけない。少なくともビフォアコロナは過ぎ去った。一期一会! 釈尊の昔から万物は流転と言われ、一切皆苦と説いた釈尊は「執着するな」と説いた。だが「楽しむな」とは説かんかった。「苦しまんほうがいいと思うから、執着すんな、とだけ云うとくぞ」くらいのもんじゃなかろか。その上で楽しめるものは、健やかに楽しむ(寂寞のなか静けき朝露の光に満ち足りる寂光土)、くらいでいいんじゃないでしょうか。メモにも拘らず執着せず、ちょっと自分自身の近過去トリップを楽しんでみる、っていう。なんだか凄い話になったですな!
「自分の方法」に至る道