WRM 第504号感想
「はるか昔のブログ界では、さまざまな意見が出てきたときに、それらを一旦整理した上で、自分の議論を展開される片がいて、」
なつかしい何かを感じ取ってしまった
トラックバックであるとか、コメント欄よりの誘導であるとか、BBSであるとか(これはちと古いか
つまり他人との意見の応酬というか、もっといえば「書簡」文化が成り立っていた
しかし、現在のブログ……新しく開設されるブログでは「SNSみたいな短文フォーマットでは書ききれない長文を置くときのための場所」という前置きがされるパターンが多くみられる
ちなみに、そういうブログが長続きするパターンもまた、あまり無いわけであって
とすると、「SNSつぶやきの長文ver」なブログ記事が多い、と言えなくもないだろうか
「長いつぶやきは、呟きなのか?」という問題はここではおく
SNSつぶやきというものは、自分の思想の練り上げられた念のカタマリのようなギトギトした深くややこしい何か、の対極ではあろうと思う。つまり自己の省察の果ての練り上げられた思想の文章、思考の練り上げの総決算たるニュアンスはそこにはない。そんな呟きがあってもらっても困るかもしれない。
つまり、SNSつぶやきは、そもそもがその場限りの、流転に任せる類の、だからつぶやきなのであって。
SNSつぶやきには、近視眼的なのを、それで良しとする態度、というのももう片方にあって
何もかもを了解して(さまざまな意見を整理)自分の意見を述べる、という場は、SNS村では、ないと思う。そもそも140字そこらで、「すべてを了解」も「自分の論理(最低でも三段論法)」も、なかなか物理的にできやしないだろう、というのもある
以上の思考フォーマット(というかSNSつぶやきのやり口)を前提にすると、なるほど、たしかに「熟考」そして「他者の意見を纏める」なるブログの総数の少なさも納得と思えてくる。
もうひとつは、「さまざまな意見が出てくる」というその「場」そのものの、ただ中のアカウント(いちアカウント)として、SNS村に居なければならない、という状況もある。
つまり、「名無しさん」として俯瞰がしづらい。
この「自分(というアカウント)」が発言するとなったら、場(村)において、なんらかの政治的判断を、意識的、ないし無意識的に行ってしまう。
たとえば、界隈の●●さん、というものを意識したテキスト。これが界隈をよくも悪くも刺激して、というパターン。まぁ内輪ノリっていう話なだけなんですが。
そうそう、このご時世、「ある程度までの内輪ノリの延長」以外の文章ってどこまで書けるのでしょうか。
「普遍的」というやつですが。
そもそもこの問いたて自体が、非常に「西欧知性的な傲慢さを感じる」といわれたらギャフンですが、まあそれはそれとして
つまり、SNSは、その中にいると、常に「ただ中のアカウント」という政治力学のコンテキストが働きます。となると、そこを突き抜ける普遍性、というのを、どれだけ個々人のアカウントが持つことが出来るのか。
そして、「さまざまな意見を整理」というのは、確実にある一定以上のレベルの「普遍性」を目標としていたことは、確実であると思うのです。なにせ、「さまざまな意見を整理」して自分の意見を述べる、っていう態度そのものが、普遍性への希求そのものですからね。
言いたいことを言うブログ。それだけのブログ。その内在する偏見とか差別感情が、時に人をササクレさせて、バズる。そういう図式なんでしょう。ツッコミどころの多い文章。
だから「さまざまな意見を整理して」という営為が、そもそも非コスパとなってしまう。
そうですね、「資源の無駄づかい」あるいはインターネットの無駄遣い。これは文化か? ドメインとパケット代とサーバ管理費の無駄ではないのか? しかし人間の価値は無駄から産まれるサムシングに有り?
しかし懐かしい。かつてのインターネットが懐かしい。
というのも、自分はブログより前のテキストサイトが懐かしい。グーグルなんぞのロボット型検索エンジンなんぞに支配されていないインターネットが懐かしい。「ある一定を把握できている」と錯覚できていたあの頃が懐かしい
村上春樹は、ビーチボーイズのベスト盤にエッセイを寄せていたけど、そのタイトルはたしか「みんなが海を持てたなら」だったと思う。「雑文集」を引っ張り出せばたしかそこにあったはず
みんなが海……みんなが個人サイトを持てたなら
ブログでもいいんですが、個人サイトはいいですよ。個人サイトは個人でデザインを決めることが出来るんですよ。これつまり個人の宇宙をインターネットにひっそりと打ち立てることができる妄想の強度ですよ
その妄想の強度があって、わが城の強度、セルフ宇宙の強度があって、すなわち「自己」があって、はじめて「ソーシャル」に足を踏み入れるべきなんですよ。そこんとこが練り上げられていないひとがソーシャル入って、「いいね!」獲得合戦しても、あとに残るはささやかな「ああ……」という嘆きだけですよ。
「意見」というか「思想」っていうのは、そういう「ベース(拠点、個人サイト、ブログ)」あってのもの、っていうのは、これはもう古い感覚なのかなぁ、と。そうか。