「Webをもう一度やりなおすために」コメント
(元記事)
倉下さんの静的新サイト「Addless Letter」(GithubPagesとHugo使用)
倉下さんが理想とし、現在Addless Letterで行われている「静的」なwebサイト、および「静的な心地」を持つ記事(群、としてのwebサイト)。
自分も、その「静的」なるwebサイト構築に、数年前から舵をきり続けている人間です。
【動的サイトを支える技術】
まず「技術」についてお話(定義づけ)をさせてください。
静的webサイトの逆は、言うまでもなくCMSを用いた動的ウェブサイトです。
ですが「Wordpress(WP)を入れているブログサイトは堕落しやすい」というWP悪論を想定されている場合、そこで留まるのは表面的だと思います。
しばらくWPのSEO対策の方面の議論を置いておくとして、この場合のCMS動的サイトとは「何」か?と考えたら、これは、
「topページに最新記事を表示し、下の方に近日の記事をとりあえず置く、古い記事ごとにアーカイブをlogしていく形のwebサイト」
という、いわゆる「ブログ」形式サイトの事、と考えます。WP管理画面における「記事ページ」主体のサイト、と言いますか。
ごく当たり前のことですが、自分の考えは上の技術的論点に立脚するものです。
自分もまた、ゼロ年代以前の「テキストサイト」(静的サイト、タグ打ちHTMLサイト)の時代を知っている人間として、ゼロ年代後期以降の「webサイトといったらブログなのは当たり前なのだ」という史観は、(まだ)新しい史観として見えてしまいます。
動的サイトは何をもたらしたか? よく言われるのは「更新の簡便さ」ですが、わたしの観点からしたら、この技術的・心理的言及は「まだ足りない」と思っています。
このブログシステムの全面的な普及が、書き手の精神性に何をもたらしたかというと、
・記事が簡単に更新できることによって、ブログ以降の書き手は、ブログシステムを使う限り、常に「最新記事」でものを語るようなシステム上(アーキテクチャ)の存在になった(googleによる「ブログ内の1記事」単位での細分化)。
・「最新記事」ベースの言説スタイルは、己の「過去記事」の手入れ・再構築をする精神性・作法を、おろそかにさせた。
・常に最新記事でヒット(バズ)を狙わなければインターネットの水面上に上がっていられない、という強迫観念がベースとなり、その強迫観念が検索ノイズ、凡庸性、金銭至上主義に結び付いた
……少々議論を急ぎすぎておりますが、自分が上記3点の中で一番危惧しているのは、実は「過去記事」の手入れ、の部分なのです。
【静的、であること】
最新記事がサイトのtop画面に出る、というのは、あくまでブログシステム上の仕様でしかありません。
というのも、いにしえのテキストサイトでは、topページでは更新告知と、管理人の最低限のつぶやきコメントのみが記載されているindexページで、本丸の更新部分は、indexより各リンクの伸びる、特設ページでありました。
Wordpressで言うところの「固定ぺージ」ですが、wp使用者はこの固定ページにどれだけ魂を込めているでしょうか。
その記事を「静的」に扱えるかどうか、というのは、実の所、CMS(ブログシステムでは)成り立たない……というわけではありませんが、ある程度はやりにくいものであるとは思います。
なぜなら、「静的」であるというのは、その記事・サイトに、「放言」的な安易さを許さない部分があるからです。簡単に最新記事をポンと投げておしまい、という態度とは別のもの。サイトをより良くするために常に手を入れ、記事の内容を磨き上げる。その磨き上げに、個人的な満足を感じる。それが、静的サイトを「いじる」愉しみであると思います。
かつて、テキストサイトはそのような「いじりがいのある」webサイトでした。それをホームページと呼んだりもしました。ブログシステム(CMS)も何もないHTMLタグ打ちの時代は、サイト全体のデータベース構築どころか、センスのよいwebページデザインをコーディングするのすら、物凄い苦労がいる時代でした(CSSでデザインを定義するのはまだ先のことです)
しかしそれゆえに、各々の魂の形が、記事の内容とデザインとを一体とする形で、さまざまな素人っぽい、個性的なホームページが出来ていました(出来ざるを得ませんでした)。
当時のテキストサイトのソースコードを見ると、ちょっとおぞましいものがあるのですが、それでもわたしは、その頃のテキストサイトが物凄く好きです。偏愛しています。あの頃、本当にインターネットは楽しかった!
昔、ブログシステム(CMS)以前、みんな、金にもならず、せっせと自分のホームページを手入れし、磨いていました。そしてブログシステムがやってきて、更新が勘弁になりました。デザインはきれいになりました。インターネットは隆盛しました。
しかし、いつしか最新記事にあくせくするようになり、のんきに牧歌的に手入れ・磨き上げをする、というwebサイトいじりの文化が、どこかへ行ってしまったように思います。
ブログシステムを用いると、次々にいっぱい記事を書くことが出来ます。スピード感があります。投稿ボタンをポンと押せば、自分の言説を世に届けることが出来るのです。
でも、スピード感がたどり着いたのが、現在のインターネットだとしたら。
ブログシステムの中に、せめてかつてのテキストサイトのような
・自分のこれまでの記事を「読者として」一覧することが出来、
・自分らしい魂の情念のデザインを作りあげることが出来る、
・つまりWPでいうとこの固定ページ
を作ることが出来たら、まだ話はもっとなごやかだったのかもしれません。倉下さんがドメインrashita.net直下においていらっしゃるindexページ(プロフィールページ)のような……。
しかし、現在の「最新記事を尊ぶ」インターネット文化の潮流では、それを求めるのは厳しいものがあります。
ましてどの口で「HTMLタグ打ち&FTPアップロードにもどれ」と言えるでしょうか。
ただ。
自分は、前年末にツイッター・SNSを止めたのですが、ここにきて、いよいよ静的サイト……HTMLタグ打ち&FTPアップロードのテキストサイトを営もう、としています。
これです。↓
これは「世間のSNS的潮流」から思いっきり離れますが、自分は、そのあたりを、諦めました。
さきに、WPとSEO対策のことを話に出しました(置きました)が、はてなブログにせよ、noteにせよ、SNSに向けての導線をみな整備しています。そして、上述のように最新記事を尊ぶ現在のインターネット・アーキテクチャが、SNSを媒介にして、加速、加速、とアクセラレイトしていきます。
そんなインターネットを自分は見たかったんじゃない。
自分は、本当にあのテキストサイトの時代を愛していたんだ。
だったら、自分ひとりだけでもテキストサイトを、静的HTMLサイトをやっていよう。
なぜか。じつはこれは、叛逆ですらなくて。
自分は、自分の愛するサイトを「手入れ」したかったんです。
そうすることによって、わずかでも自分を肯定したかったんです。自分が満足いくものを作って、それを盆栽をいじるようにちまちま手をいれていたい。「最新記事」更新圧力に圧迫されることなく。
自分と対話するように、自分のサイトを愛していたい。孤独のなかで荒れ野に咲く花を愛でるかのように。そこにのみ慈雨は寂光土に降り注ぐのだと。
誰が見るか、バズがどうか、とかいう話なんかじゃなくて、話は自己の救済なんです。
そうでなかったら、なんで自分がwebサイトを運営しているか、まるでわからなくなってしまうから。
(まるでその逆の考えを持っている人を断罪するつもりは別にありませんが)
自分もwebをやり直したいのです。だってやっぱり、あの頃のインターネットも、今あるいくつかのインターネットも、愛すべきものは本当に好きですし。
このインターネットには、自分の箱庭世界を作ることが出来るんです。インターネットに、自分の世界を、方舟のように浮かべることが出来るんです。そういうことが出来るインターネットがあって、本当によかった、と思いますし、それを失いたくはない。インターネットなんてなくなってしまえ!とは、今もやっぱり言うことが出来ないのです。