自由とは迷えること
いくつかの歴史や心理学を学べば、人がまったく正しいことをしていると確信しながら、人道にもとる行為を取ることがわかる。それがわかれば、自分がまったく正しいと確信しているその行為の確実性は消え失せ、迷うようになる。それが、自由の一つの形ではないのだろうか。 こうも言えるだろう。盲信して邁進するのは、イデオロギーの奴隷なのだと。
自由とは、自らの立場において信じるべき思想にすら「それって本当だろうか」と懐疑を挟めることであろう。
ソクラテスは、自らが毒の杯をあおる決断をしたときでさえ、対話を行った(プラトンが語るところによると)。アジテーションするのではなく。もし自分の言説をひっくり返す意見が出たのならば、それを傾聴したことだろう。毒杯をあおる決断よりも、その姿勢こそに偉大さを感じる。