自分に向けた長文メモ
結城はひとりで仕事をしていますから、誰かとの「会議」のようなものはありません。仕事のことは基本的にひとりで考えて、決めて、実行するだけです。だから、先ほどのベゾスの記事にあるような「メモ」を書く必要はありません。でも、それでいいのかな?と思っていたのです。
自分の作業ログはよく書いています。どんな作業をしたか。何か問題が起きたか。次に何をすべきか。そのような具体的な項目を箇条書きにしたものです。それは「作業者」モードの自分にとっては必須の情報ともいえるでしょう。では「管理者」モードの自分にとっては?
作業者と管理者という二つに限らない。ともかく、ベタな作業を行っているのとは違う次元での自分の思考を、きちんとした文章として書くべきではないだろうか。と改めて思っているのです。それは外部に公開する種類のものではなく、純粋に自分の仕事の方針を固めていく上で。
そのことは直観的には何年も前から感じ取っていました。実際、一冊の本を書くときには全体を俯瞰して「この本はいったい何であるか」についての長い文章を書いています。それは箇条書きではなく、断片的なメモでもなく、それだけで読める一連の文章です。
それはちょうど、連ツイの最初に示したベゾスの数ページに渡る「メモ」と長さ的にも一致しているかもしれません。まとまりを持って、背景から書き起こし、ある程度の具体的なところまでを描いた文章です。それを書くことによって、私自身が「この本(この仕事」の意味をよく理解するのです。
その「メモ」(私が書いているもの)の特徴はストーリーがあるということです。物語ということではなくて、背景や考えや根拠や流れが適切な重みで(つまり箇条書きのような単純化を避ける形で)書かれているのです。考えていることを自分の中に残さずに書いておくことが必要だと感じたからです。
いったん考えたことであっても、数日、数週間、数ヶ月経ったら、細かいところまでは忘れてしまう。だから考えているときにきちんと断片的ではない文章に書いておくというのは大事なのだろう。
ベゾスからの連想でビルゲイツのことも思い出しました。ビルゲイツは「考える一週間」というのを定期的にとっている話を何かで読みました。深く考えて、読書をして、たぶん何かを書くのでしょう。単なる箇条書きではなく、まとまった文章を。
誤解する人はないと思うけれど、この連ツイで箇条書きを否定しているわけではありません。そういう話ではないのです。箇条書きで書いているのとは違う次元の思考や時間や視点の話をあれこれと考えているという話です。
何年か前にも、安易に着地させない思考(文章)の話をどこかで書いたような気がする。安易に着地させないで、中途半端な状態であってもキープできる力の話だ。
本を一冊書くのは数ヶ月から一年くらいの規模の時間が掛かる。ブログ記事やメルマガを書くのは数時間から二日くらいの規模だ。たぶん私がいまイメージしているのは、その中間くらいの長さの時間で書く規模の文章だと思う。8日〜16日くらいだろうか。
8日〜10日を掛けて書く文章(それだけの時間を掛けて考えること)というのは、これまであまり意識して来なかったなと思う。本を書くときには時間を気にせずふんだんにリソースを注いで書く。記事を書くときにはスピードや鮮度を大事にして書く。そのどちらでもない文章のことだ。
そんなことを考えていました
関連する文書(Amazon株主宛年次書簡)の中にあるPerfect Handstandsの話とSix-Page Narrativesの話を参照。