自分と「幽霊」
かつてアリストテレスが名指された。名「アリストテレス」は、そこからさまざまな経路を通り配達される。それゆえ名「アリストテレス」はいまや、複数の経路を通過してきた無数の名の集合体である。必然的にそこではさまざまな齟齬が生じる。名「アリストテレス」に付された複数の(経路が違う)確定記述のあいだで矛盾が生じることもあるだろうし、またその一部が行方不明になってしまったり、他の名の確定記述と混同されてしまうこともありうる。しかし命名儀式に遡行することは不可能なのだから、それらの齟齬を調停することもまた不可能である。だからこそ、名「アリストテレス」にはつねに訂正可能性が取り憑く。個有名の単独性を構成し、かつ同時に脅かすその訂正可能性を、ここで前章の議論をうけ「幽霊」と呼ぶことができるだろう。
私という存在を、タイムライン的ではなく、むしろ複数の経路によって成り立つネットワークノードの複合体として捉えるとき、私にはつねに「幽霊」が取り憑いていると見立てることができる。
あるいは、他者の中にいる自分ということで、SAOにおけるキリトの復活を重ねてもいい 「複数の経路を通過する」という文脈で、光のスリット通過と重ねるのも面白い。
量子的な自分
複数の経路を辿ってきた私は、全体として見たときに矛盾することはありえる。
しかも、それを「始原の私」に遡って調停することはできない
私は、私として矛盾することがありえ、だからこそ私を更新していくことができる。
キリトが、自分がゲーム内のシミュレーションでないかどうかを確かめるために、「自分ならまずやらないことをやってみた」ことに注目してもいい。
自分のことを完璧に模倣した、もっとも「私らしい」シミュレーションよりも、私は「私らしく」なくありえる。
「私らしさ」からいつでもはみ出せる、逸脱できる、剰余を持つ。