結城メルマガYMM419の感想
《継続は力なり》がいいスローガンだとしても、仮に変化を全く許容せずに同じことを継続していたならば、時代が変化していけば継続は難しくなるでしょう。《継続》するためにこそ《変化》が必要になるわけですね。 継続さえしていれば、良い結果が得られると思うのは、一種の思い込みというか思考停止だろう。
コアにあるものを、変化する現実の上でいかに実装していくのか。考え続ける必要がある。
「考え続ける」は、一つのテーマになるかもしれない。
連続的行為。
切断的行為としては、「わからない」と受け入れる。
この二つを生活の中に取り込んでいく。
何十年たっても、自分についての新たな発見があるものです。
あるものです。
ちなみに、長い夫婦生活でも相手についての新たな発見があります。
「人からやらされる仕事」が嫌で「自分で決めた仕事」がそれほど嫌じゃないのは「コントロール」で説明ができそうです。「人からやらされる仕事」は自分のコントロール下にない感覚があるという意味です。
個人的には「コントロール感」の有無だと捉えている。つまり、実際に状況をコントロールできているかどうかではなく、コントロールできている感覚を持てているかどうかが鍵、ということ(嫌な言い方をすると実際はコントロールできていなくても、そうできているような感覚が与えられたらモチベーションは阻害されないということ)。 マネジメントにおいても、いかにこのコントロール感を持ってもらえるかが大切だと感じている。
方法論を論じると長くなるので割愛する
GTDにおいても、「状況のコントロール」と「将来の見通し」を持つことが大切だと説かれている。ある種の自己啓発ではこれらを手放すことで心の平安が訪れると解くし、それはそれで間違いではないのだろうが、人間のよくある状況ではむしろこの「コントロール感」をいかにマネジメントするかに鍵がある。 ともあれ、手放すことで心の平安が訪れると解くのも、一種のコントロール感刺激なのかもしれないが。
自分が正しいと疑わない(ように見える)友人についてアドバイスいただきたいです。
「自分が正しいと疑わない」人間に、「あなたは間違っていますよ」といっても、「自分が正しいと疑わない」のだから、その意見は拒絶される。
「自分が正しいと疑わない」人間は、自分が主張するAという意見が正しいと思っているし、自分が主張するBという意見も正しいと思っている。で、その総合が、「自分の意見は正しい」でありそれを式変形すると「自分は正しい」となる。
つまり、「自分が正しいと疑わない」という姿勢そのものが「正しい」と思っているのであり、他者からの「あなたは間違っていますよ」という意見は、「日本は日本ではありませんよ」くらいに間違って聞こえる。
で、どうすればいいかというと、基本的に短期的にはどうしようもない、というのが私が人生経験で学んできたこと。
これはあくまで結城の個人的な考えですが、《数学トーク》によって試験問題を作るのは非常に難しいと想像します。それはなぜかというと《数学トーク》のおもしろみの一つは《迷う》ところにあるからです。
この点はよくよく考えておきたい。
一般的な解説書の場合は、基本的に一直線に答えを示す。
この場合、「失敗」のありようや、そこからのカムバック方法は示されない。
しかし、一般的な学びにおいては、そんなにスムーズに進むことはない。
つまり、ある種の「モデル化」がそこでは行われている。
対話形式の場合、最終的にAという選択肢が取られるにせよ、 Bを選んだ場合はどうなるのか
そのメリットやデメリットはどうか
みたいな情報が、不自然でない形で提示できる。これが持つ意味は大きい。
その意味で、その情報の何を・どんな要素を伝えたいかによって、表現の形式(解説文なのか対話なのか)を選択した方がいいだろう。 それにしても、『ズボラな僕がEvernoteで情報の片付け達人になった理由』や『Dr.Hack』では、男性主人公がへっぽこで、メガネをかけた女性がメンターである、という点は共通しているな。実にわかりやすい。