筆考と暗考のあいだ
◇筆考と暗考のあいだ – R-style
頭の中で自由に考えるという極があり、もう一方で文字として書き留めて固定してしまうという極がある。この二つだけがすべてというわけではない。
たとえば、話しながら考えるというセクションだ。一度吐いた言葉は、永遠に口の中に戻すことはできないと言われるが、もちろんそういう場合もある、というだけのことである。話した言葉は、言葉という有限化装置を潜り抜けはするが、それは物質的に固定されることはなく、ただ音波の弱まりと共に消え去っていく。
言い間違えは言い直せばいいし、話題を急展開させたところで、それほど違和感はない。書き言葉に比べて、文脈固定力が弱いのだ。言い換えれば、それは自由さを持つということである。つまり、「頭の中で考える」寄り、ということだ。
そうした話し言葉も、書くことと併用される場合がある。たとえば、議事録が残される場合がそれだし、ホワイトボードを使って書きながら説明する場合も、そこに加えられるだろう。前者は、議事録を残されることを発言者が自覚している限りにおいて、発言の固定力は高まる。後から議事録の修正が可能だとしても、話し言葉の自由さは一定量減少している。
逆に、ホワイトボードをアシストにして話し言葉を発展させる場合は、案外話題は拡散するものである。話題を書き留めてあるから、「いつでも本題に戻ってこれる」という気持ちが芽生え、それが脱線を促すようなことが起こりうる。併用する場合でも、セクションは分かれるわけだ。
書きながら考える場合だって、一様ではない。鉛筆を使う場合とボールペンを使う場合は違うだろうし、綴じノートに書く場合とルーズリーフに書く場合も違うだろう。紙に書くことと付箋に書くことだって同じとは言えない。それぞれに、文脈固定度と自由さは変わってくる。
前回は、筆考と暗考の両方を使っていけばよいと書いた。しかし、知的生産のフィールドは広い。私たちはさまざまな道具を用いて、そのフィールドに乗り込まなければならない。
「筆考と暗考」という単純な分類を、もう少し解像度を上げて眺めていく必要があるだろう。