私たちはコンピュータによって何を見つけられるようになったのか
かーそる掲示板より
>私たちはコンピュータを手にして、「話が飛ぶ」や「重複している」を、西田先生の頃より上手に見つけられるようになりました。それは間違いありません。それって、何なのでしょう。実際のところ、何を見つけたのでしょうか。
瑕疵でないことは間違いない。
「話が飛ぶ」や「重複している」は、主に読みにくさの面から理解される。今パスカルの『パンセ 』を読んでいるが、断片の集まりなので、まさしく話が飛んで、重複が多い。正直読んでいて嫌になる。それは、それらが断片でしかなく本にはなっていないから。
では、本であればどうなのか。本になれば「話が飛ぶ」や「重複している」がなくなるのか? なくなることもあるだろうし、そうでないこともあるだろう。そうでないならば、そうでない意図がそこにある。意図というと少し強すぎるかもしれない。そうであることを書き手が受け入れた、ということだ。書き手の文脈として、それらはそこにある。本を書くための原稿の素材たちは、そうではない。それは文脈になりそうなものたちであって、そこには飛躍というよりも断絶がある。あるいは、文脈を形成しきれていない。だから、読んでいてしんどい。
断片集(もっと言えば破片の集まりのようなもの)ではなく、本として書き下ろされた文章の場合、そこにあるのは著者の思考の流れである。人の思考の流れは飛躍したり、重複したりが当たり前のように出てくる。それをそのまま受け取る、という読書体験もあるだろうし、まさにそうしなければ意味をなさない読書体験すらあるだろう。
しかし、そうではない場合もある。本の目的が、読み手にある情報を伝え、それを実行に移して欲しい場合などがそれだ。そこでは話が飛ぶのは御法度だし、重複しているとややこしいことになる。重複は冗長性となり情報の強度を支えたり、あるいは単純に繰り返しによる強調としても働くが、そのような意味合いを持たない(複数登場していることに意味がない)情報については、ただ鬱陶しいだけである。あるいはそのように考える書き手・編集者の存在が多いと考えられる。
洗練、という言葉で呼ぶべきなのかどうかはわからない。しかし、洗練(sophisticated)という言葉にある、ある種の否定的な(あるいは皮肉的な)語感を引き継ぐなら、私たちはより簡単に文章を洗練させることができるようになった。洗練を阻害する箇所を容易に特定できるようになった。しかしそれは、ある種の文章のありようを、別様に変えてしまう可能性もまた増えているということになる。
断片は、それを並べればどうしたって「全体」になる。それは素材が全体になるのではなく、受け手の中で全体として認識されるということだ。だとしたら、どのように文章を書いても、それは正解でも間違いでもない。単に「効果」が異なるだけだ。 話が飛んでいる部分を修正したり、重複を整えたりすれば、それは「全体」が変わることを意味する。全体がもたらす効果が変わることを意味する。欠損や重複を嫌うならその意図が、欠損や重複に意味を認めるなら、その意味が強調されることで、全体が変わる。前者を洗練と呼ぶなら、おそらくはそうなのだろう。しかしそれは、文章が辿るべきたった一つの進化の道でないことはたしかだ。
私たちは何を見つけられるようになったのか?
文章が別様に向かって進んでいく道のり、ではないだろうか。それが効果的な道なのか、そうでないのかは未確定ではあるが。
rashita.icon22:06 on March 21, 2020