理想と現実のギャップ
理想と現実のギャップという言葉をよく聞くけども、理想は現実ではないから理想なのであって、ギャップがあるのは当然なのではないかといつも思う。理想と現実にギャップがあることとそこにがっかり感が生じるのは常にセットではない。ギャップがあっても当たり前、という気持ちは持てる。
だから、別に理想を捨てる必要なんてない。もちろん選択肢の一つではあるけれども。
つまり、理想といっても二つあるのだろう。 「このようにありたい」というベクトルを内包したものと、「こうあるべき」という評価軸を有したものが。ギャップによるがっかり感を引き起こすのは後者の理想なはずだ。
「このようにありたい」という思いは、必ず「今はこうではない」が背景にあるから、現実と理想のギャップにがっかりすることはない。むしろその認識は前提である。一方で、「こうあるべき」は、そこにある現実をどう評価するのか、という話であり、現実に重なってしまっている。それががっかりを生む。
英語で表現し直せば、前者はvisionであり、visionはその言葉を用いることからして幻(現実ではない)が含意されている。一方、後者はidea(ideal)であり、こちらは現実(であるべきもの)が含意されている。この二つの違いが、結局re:visionで語っていたものであるのだろう。
僕が一つだけ引っかかるのは、「理想を持たないということもまた理想の一つではないか」なのだが、おそらくは「後者のような理想を持たない、という前者的な理想」ということなのだろう。
とりあえず、自己啓発書でさんざん語られてきた「hogehogeを捨てると楽になる」という話は「そりゃまあそうだけど」という気持ちで眺めているので、個人的にはそれを踏まえた上で、そのhogehogeを捨てずにうまく付き合っていく方法を探究していきたい所存です。
「部屋に物を何も置かなければ散らかりません!」(キリッ と言われてもなあ、というような感触。
解体すべきものがあるとしたら、理想ではなくむしろ規範性(あるいは規範化した理想)であって、そこにも「解体すべき」というような規範性が含まれていることに注意を向ける必要がある。
でもまあ、それができるようになると、ある種の自己啓発書・ノウハウ書・セミナーが一切無用な人間になってしまうので、それでは困る人もいるのだろうとは思う。それでしか稼げない人はどうしたらいいのだ、という問題もあるわけで。