何者になれなくても、「誰」は存在する
何者かにならないといけないと、一体誰が決めた?
なぜ僕たちは何者かになりたがるのか?
人は人生に物語(自分が主人公の物語)を求めすぎているのか?
それは西洋的な、個人主義と関係がある?
西洋は神という個人主義を相対化(弱体化、希釈化)させる装置がある
日本にはそれがない
世間がかつてそれを担っていたが、今はもう機能不全に陥りつつある。
何者か、という社会的レイヤーにポジションがなくても、「誰」であることはできる
ただし、一人ではそれは為せない
他者が必要である。
他者からの承認が必要かどうかまではわからない。