他者の意識に対する懐疑
どれだけ内省や観照を積み重ねても、他者の心(意識)の存在は確信できない 自分が、そいつのことを人間だと感じるなら、それは人間ということにしておく(そうしておいて、たいした問題はない)
人間の定義を、人間が定義付ける行為だが、その人間は、自分である。
自分は人間であり、その人間が他者のことを人間らしく感じるのだから、そいつも人間としておく
デカルトの我思う、ゆえに我ありですら、懐疑しているものを我(自分)としよう、という仮説だと捉えれば、この二つは非常に似通ってくる。 人間の定義が先にあるのではなく、自分という存在と、それに非常に似通った性質を持つ存在を、人間と呼ぶことにしている、というのが近いかもしれない。