中動態
インド・ヨーロッパ語族の言語では、動詞の態には主語から外に向けて動作が行われる能動態と、動作が主語へ向けて行われる中動態の2種類があった。後者は受動態の意味を含んでおり、中動受動態(英語: medio-passive)とも呼ばれる。
具体的には、
自分に対する動作(従う・すわる・着る・体を洗う)
動作の結果が自分の利害に関連する場合
知覚・感覚・感情を表す動作(見る・知る・怒る)
相互に行なう動作(会話する・戦う)
能動で表現しても、受動で表現しても表現しきれないもの
能動とは
主体→対象
主体が対象に働きかける
受動とは
対象→主体
主体が対象によって働きかけられている
能動/受動の世界は、この二つによってのみ世界を表現する
主体→対象
対象→主体
本当にそれだけなのか?
(自分の)体を洗う?
主体→対象
しかし対象は、主体
つまり
https://gyazo.com/56b529921729a73b0a5e7c3c90bc7d59
右向きのやじるしだけでは表現できない
会話する
私があなたに話す
あなたが私に話す(私はあなたに話されている)
二つの状態の重なり
さらに、私が話すことであなたの話が惹起され
あなたが話すことで、私の話が惹起される
相互作用がある
https://gyazo.com/30a4f7916f0438f770910a68de4fab26
主体→対象、でも、対象→主体、でも表しきれない
ある行為(や状態)が、その主体にも影響を及ぼしているとき、能動とも受動とも言い切れない何かがそこにある。
上記からわかるのは、
主体→対象
対象→主体
という二つの見方だけでは、この世界の在り様を十分に記述しきれない、ということ。
無理に記述すると、切り落とされてしまうものがある。
アルコール依存症の人は、アルコールを飲んでいる? それとも アルコールに飲まされている?
どちらとも言えるし、どちらとも言えない
「アルコールを飲んでいる」と表現すると、意志の力があまりにも誇張される
「飲まないと強く思えば、飲まなくなるはずだ」
そんなことはない
環境の影響は大きい
「飲まされている」と表現すると、意志の力が無視され、改善の手が打てなくなる
「何したって無駄。アルコールには逆らえない」
以上のような見方以外の見方があるのではないか、ということ。
以前、rashita.iconは、「執筆の現象学」で、書き手は行為の主体者ではなく、系の一部だと書いた。
https://gyazo.com/54736f6f5e7bbcf28b0696846af5c1d2
ここで表されているのは、人が文章を書いているときは、「文章を書いている」という状態と、何か伝えたいこと(メッセージ、閃き)によって「文章を書かされている」という状態が重なっている、ということでもある。
どちらか一つだけで表現してしまうと、その状態はまったく違って理解されてしまう。
以上が『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)という本のもくろみであるわけですが、書くきっかけというのは別にありました。『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社/増補新版:太田出版)を出した後、依存症の自助グループの方と仲良くなったんですが、そこで、意志や責任の概念になやまされている人たちに出会ったんです。「自分の意志を持たねばならない」「責任を引き受けねばならない」と強く思い込んでいればいるほど、自分の抱えている問題が悪化していく、そういう事態についてのお話を伺い、自分は何としてでも中動態に取り組まねばならないと思ったんですね。