ムラとバザールでの買い物
裏のテーマに、「筋肉はあるにこしたことはない」というのが見えていて、
まず、「筋肉はあるにこしたことはない」は是であろう。ただし、
筋肉をつけるためのコストがゼロであり
つけ過ぎてデメリットがある状態までいかない
という前提が必要だが。
バザールの売り手は村的な消費者にも売ることはできるし、
村的な売り手から買っても、バザール的な買い手は失敗しない
まず、村社会において、バザール的な買い手(売り手でもいい)は、そもそも村に入れない。
村にはゲートキーパーがいるし
そもそも村には「空気」がある。
生来的にバザール的知性を持つものが村に誕生した場合でも、その村では非常にいきづらいことになるだろう。
利益をえればえるほど、周りから疎まれる。
結局のところ、ムラ的、バザール的というのは社会適応的な能力でしかない
ただ、村的なものが解体された後に、そのまま何のリテラシーも学ばずに(必要性を感じずに)バザール的なものに突入したらえらいことになるで、という警句のメッセージは上の記事にはある。
でもって、世界がそちらに向かっているで、というメッセージもあるならば、たしかに「これは身に付けておいた方がいい」という裏メッセージにはなっているかもしれない。
村的なやりとりは、基本的のローコストである。
あうんの呼吸がなりたつ。
いちいち疑わない
ゲートキーパーが機能しているとき、そのようなやりとりは非常に効率が良い。
バザール的なやりとりは、非常にハイコストだ。いちいち裏どりしたり、交渉したりしなければならない。
村社会では通用する、通貨以外のもので返礼する、というのも難しいことがある(交渉力次第)
よって、もう一度言うが、むら的・バザール的というのは社会適応的な能力でしかない。
優劣はない
ただし情勢はある
言い換えれば、次々と村が解体されていくならば、バザール的技能は生き残りに必要となるだろう
逆に、村的なものを再構築していく能力もまた、生き残りに役立つかもしれない。