エッセイ2021
エッセイ2021
良い人問題
お子様セットの中高生版としてカードをつける
氷川きよしと鈴木雅之
迷惑な楽曲、パーソナルアシスタントの連呼が入っている。
ソシャゲの待ち時間の活用
虚無はいかに生成されるか
バイキングはついつい取りすぎてしまう
ゼロで割ってはいけない。それと同じように、前提としてやってはいけないことがある。
全力を尽くして、なおダメだったら。カイジ。
非-判断とゴミ捨て
スポーツと身体性
eスポーツはスポーツ足りえるか
批判とデタッチメント
あの界隈の人がなぜ一様に同じことを言い始めるのかと不思議に思っていたが、クリエイティビティの枯渇だと捉えるなら結構納得できそう。
説明をセットにしておく、Google カレンダーなど、コマンドなども。
選択肢と真ん中の歩き方
記憶のスタイルと寝る時間
オールフォーワンワンフォーオールシステム
通常ターンでプレイヤーを育成し、ここでいいかなと思ったらプレイヤーがボスに挑戦する。ボスに勝利したらそのプレイヤーの勝利、ないしは一番高いポイントが得られる。負けたら敗退(特殊アイテムで蘇生が可能)。
非目的的な行為の「言い訳」としての楽しさ、ということはありえるな。
それにしても、享楽というのは極めて個人的なものでありながら、いやおうなく共通性というか響き合わずにはいられないものがあって、なかなか不思議だ。
「当たり前のこと」は大切だが、それを体感するのには時間がかかる。
「変な人」が救うものもある。いや、「変な人」でないと救えないものがある。
シビュラは結婚相手を探せるか?
次元を移動することによって、そこにある問題(および付随する苦悩)を無化してしまういっさいの言説を、私はつまらないと断じるだろう。
エンドレス・思春期。大人が大人として(つまり向かうべき規範として)機能しなくなったというよりは、思春期のうちから「大人」を抱え込まされてしまったことで、それに十分なケリをつけられなかった、ということかもしれない。
そういえばVR上の仮想でもやっぱり「人間」なのだな。少なくとも、人気のものはだいたいそうであるように見える。別に人の姿である必要はどこにもないわけだが
何かを反省したら、それと同種の過ちは絶対に起こさないようになるはず、というのはさすがに人間の能力を超えた期待であるように思う。
店長時代に、「人を育てる」ことと「人を育てられる人を育てる」には、だいぶ違うなと感じた
スマートホームの冷蔵庫
金本位体制
金の物理的限界は紙幣が超えた
レコンキスタ(国土回復運動)
日本にパブリックやコモンははたして存在していたのか
人々を催眠状態にしうるミームとして生き残ってきたのが「終末」や「絶対正義」なのかもしれない。
爪と髪は身体的でありながら、物的な要素もある。印象では、髪はまだその人感があって、爪はより物感がある感じ。パスが(その人と)つながっていない、というような。
フィギュアにはまる人、アイドルにはまる人、筋トレにはまる人。それぞれはどう位置づけられるのだろうか。
「どのようなとき人は学び、どのようなとき人は学ばないのか」
「何かを書くのは生産的な態度」なのか
ピースのサイズが均等でないジグソーパズルがあるとして、それは通常よりも簡単だろうか、難しいだろうか。
「作業記録、上から書くか?下から書くか?」
「乳母ビーツ」という名前で、手の空いている高齢者を子供の面倒を見てもらうために派遣してもらうマッチングサービスはどうか。
僕が書店を開くなら「わからず屋」という名前にするだらう。
各々が話題を抱えているとしても、やはり「呼び水」が必要なのである
思い返してみると中高生時代は深夜のラジオと共に成長したのであった。でもって、そうしたラジオ・パーソナリティーとの親密感は、テレビとも書籍とも違ったように思える。
「摩擦」って、悪い意味に使われることが多いけど、ゼロになったらなったらで困ったことも出てくるわけで。